金しか信じられない博愛主義者

ちょっと前にツイートした内容。なんでこんなことツイートしたのかあんまり覚えてないけど、多分酔っ払っていたんだと思う。

ただ後で見直してみるとけっこう面白いなと思って、もう少し考えを深めた。すると、ピュアどころか金を信じる=人類を信じるなので、むしろ僕は博愛主義者だという結論になった。ついでに言えばお金なんて……という人は人類を疑う性悪説で絶望的世界観を持つ人間不信者。

仲間を大事にする人、スキルアップを目指す人、全員人間不信者。

目次

金はどうして金足り得るか

当たり前だが金そのものに何か価値があるわけではない。金に価値があるのは、それによって別の何かと交換できるはずだと皆が信じているからだ。何故そのように信じられるかと言えば、それを保証する大きな存在があるからだ。

現代において代表的なその存在は国家である。実際、破綻した国の通貨は暴落する。通貨の信用イコール国家の信用である。逆に言うと、金を信用するには、少なくともその金を保証する国家もまた信じる必要がある。

ゆえに、金を信じる僕は国家を信じている。国家を信じているということは、国家を構成する国民のことも信じている。

さらに、僕は日本円だけを信じているわけではない。ドルを信じている。ユーロを信じている。ルーブルだって信じている。つまり、僕は国際経済、ひいては世界を信じている。それはすなわち世界中の人間を信じていることにほかならない。

したがって、金を信じる僕は人類を信じ慈しむ博愛主義者である。

金を軽んじるとは他人を軽んじること

逆に、金を軽んじる態度は人類の信用を軽んじる態度である。人間が信じられないから、身の回りの者に信頼の重きを置く。外の人間を信用しない。仲間を大事にするのは、仲間以外の人間を信じられないからだ。

スキルアップや自己啓発も同様の態度である。直接他人の役に立てる力を持つことで、他者に対し影響力を持ち、大事にされようとしている。

いずれにせよ、根本的に他者を信用していない。

人類とは概念

以上のように、金を信じる態度こそもっとも人類を信じる態度である。金しか信じられないとは人類しか信じられないというに等しい。

だが僕は確かに人類かもしれないが、その前に僕である。目の前の人間は確かに人類かもしれないが、人類である前にその人である。たとえ明日毒虫になっていたとしても、それは変わらない。

結局のところ人類とは概念であって現実の事物そのものではない。だから信じるに値しないと言うつもりはなく、そういう概念を信じられることが人間の強さだろうと思う。金のやりとりとは、とどのつまり互いの信心のやりとりとも言える。

ただ恐らく、この信仰はあまり幸福に寄与しない。結局人間はどこまでいっても具体的なその人でしかなく、彼の感じる幸福とは具体的かつ直接的な事象によって生じる化学反応の結果である。

僕にせよ皆にせよ、そういう化学反応のみを求めて生きているわけではない。しかし日々の感情は化学反応であり、感情を動かすのは概念ではなく、半径一メートルで起きる現実だ。金の奥に人類があったとしても、目の前の金はただ金である。

つまり、金を信じ人類を信じる限り、僕は感情的に救われない。

もはや酒を信じるしかない。

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