転売については人によって見方が異なるし、なんとも思っていない人も多いと思うが、一方で嫌っている人も多い、ということは事実として認識されているかと思う。
その理由については多くの意見があるだろうが、突き詰めると転売ヤーが乗っけるプレミアに何を見るか次第だと思う。僕なんかはかなり否定的で、「人の命に値札をつけて取引する悪魔」くらいの認識だが、これは感情的なところがベースになっていることは認めている。実際、そう感じない人にとっては特段問題のない商行為にあたる。この感覚は人によりけりで、どう感じるかに差はあれど、資本主義を掲げる以上は基本的に規制できない。
嫌われる転売、嫌われない転売
転売の中でも、嫌われるものと嫌われないものがある。たとえば近所のブックオフで1冊100円で仕入れた古本を、ネットで200円相当で売る行為は、別に嫌われない。いわゆるせどりというやつである。一方で、発売直後のゲーム機をやりもしない癖に買い占めて高く売る行為は、ゴキブリのごとく嫌われる。
この違いはなんだろうか。どちらも同じように、既に売られているものを個人が購入し、それをネットで売っているだけなのだが。
転売ヤーは本当に価値を提供していないのか?
実務的にその違いを見るのであれば、前者は「ブックオフが近くにない人に対し、ネットで本を定価より安価に提供する」という付加価値をつけている一方で、後者は「本来であれば店で買えるはずのものを買えなくしている」と、むしろ不便にしてしていると見ることができるかもしれない。実際そのように解釈している人はよく見かける。
しかし、本当にそうだろうか。人気のゲーム機は品薄であるために、購入するには店に並んで買う必要があるかもしれない。仕事で忙しい人などは必ずしもその時間を取れないだろう。平日の朝からゲームを買いに行く、あるいはWebサイトで販売の瞬間を待ち構えられる、そういう暇な人でないと、新しいゲーム機は買えないのだろうか。
ここで俺たちの転売ヤーが登場する。俺たちの転売ヤーが忙しい彼らの代わりに品物を購入し、需要に見合った値札を付け直すことによって、「時間はないが金はある」人たちが、ゲーム機を入手することができるようになるわけだ(そんな人にゲームをする時間があるのか知らない)。また、「金はないが時間はある」人たちは、今までと同じようにその有り余る時間を使えば手に入れることができるはずだ。多分。競争は熾烈になるだろうが。
このように考えた時、転売ヤーは何の価値も提供していないと言えるだろうか。少なくとも、「本来は十分に行き渡るまで手に入れられなかったであろう、時間はないが金はある人たち」にとっては、価値を提供しているのではないだろうか。
一方で、全体の供給面においてはマイナスの存在であることは否めないだろう。何故ならば、本来なら欲しい人に行き渡っているはずのものが、転売ヤーの在庫として眠るからである。したがって、ただでさえ品薄なのに全体の供給がさらに絞られることになる。また、それがさらに転売品の価格をつり上げる要因にもなる。その癖、怪しげな流通経路は品質の劣化や偽物の流通を招くリスクもある。
したがって、供給元のメーカーや、多くの「金が十分にあるわけではなく、少しでも速く適正な価格で商品が行き渡ることを願っているファン」にとって、転売ヤーは憎まれる存在である(逆に言うと、市場にある状態を長く保てるのでアクセス性はよくなっていると言えるかもしれない)。
以上より、転売ヤーは一部の人たちに価値を提供する一方で、全体的には供給を遅らせるマイナスの存在になっていると言えるだろう。
転売行為は悪いことか?
しかし、たとえ転売ヤーの存在が業界全体にとってはマイナスであったとしても、転売という行為そのものは否定できない。値札の貼り替えは悪ではない。それを否定すれば、せどりはおろか、普通の商売もできなくなってしまう。価格を自由に設定できることは、自由競争市場たる基本であり、資本主義の根幹である。
したがって、転売ヤーのやっている価格の再設定は、資本主義の観点から言えば何も悪いことではない。つまり、資本主義をちゃんとやる限り、転売ヤーは規制できない。
自由競争ではなく価格操作が目的
ということで転売ヤー大正義なのかというと、、見方によってはそうとも言えない。何故ならば、転売ヤーの真の目的は自由競争の促進ではなく、むしろその逆、価格操作だからである。普通の人には参戦できないような熾烈な買い占めによって不完全な競争市場を爆誕させることにより、法外な価格につり上げて利益を得ようとする試み、それが嫌われる転売の本質と言える。
ここで疑問が生じる。適正な価格とはいくらなのか、ということだ。ここで、資本主義の論理に染まりきった人間であれば、転売ヤーのつけた値札こそが適正価格だと信じる。それこそが真の需要と供給の均衡点であり、それが法外な価格であれば、売れないはずだからだ。この見方において、転売は自由な競争市場における商行為の一つであって、なんら誹りを受ける謂れはない。
しかし、そうであるとするならば、なぜそれを転売ヤーがやる必要があるのだろうか。なぜ小売店がそれをしないのだろうか。これは色々な事情があるだろうが、あえて一言で言うならば、そんなことすれば滅茶苦茶嫌われて信用を失う、ということを知っているからだろう。
なぜそうなるのか?自由競争の適正な価格設定であれば、多少高くても消費者は納得するのではないか?実際、今グラフィックボードが高いけれど、供給元のNVIDIAに対する恨み言は聞いても、販売店を非難するような人を見かけることはまずない。だが、転売ヤー大嫌いマンはXで検索すれば転売できそうなほど出てくる。
つまり、非難されがちな転売ヤーによる価格の再設定は、需要と供給の均衡点とピュアに言えるものではなく、消費者からその正当性を必ずしも支持されていない。
あなたの命の価格はいくらですか?
しかし、なぜそんなことになるのか。その問いに答えるため、ここで価格と価値の関係について考えたい。
まず、価格と価値はイコールではない。価格とは金という一軸で表現された流通にかかる定量的なコストである。一方で価値とは、定性的かつ個人的で無数の軸を持った、本質的には数値化できないものだ。しかしそれではどうにもならないので、現実社会では便宜のために、価値を価格に射影することで流通を実現している。この射影する時、色々なものが捨てられる。しかもその捨てられるものは、しばしば本質ですらある(これはいわゆるクリエイターがしばしば稼げない理由でもある)。
このために、価格と価値はしばしば乖離する。この乖離が価値のプラス方向に大きいとき、我々は「得した」と感じ、マイナス方向に大きいとき「損した」と感じる。この乖離は個人差が大きく、特に文化的な商品において顕著だ。あえて金で考えるならば、500円の漫画が本当にその人にとって500円相当の価値であることは稀である。ほとんどの場合、それよりも遙かに安いか、その逆で遙かに高い。
しかし前述したように、そもそも価値を金という尺度に置き換えることが野暮といえよう。人生に価値はあっても価格はない。価値とはそういうものだ。自分の命はいくらだろうか。それは決して、生命保険の額や、事故で死亡した場合の損害賠償の額で表現できるものではないはずだ。自分にとって、他ならぬ自分の命はプライスレスである。
交換不可能な心を交換可能な金にのせる
このように、価値とは本来的に極めて個人的かつ数値化とは相性の悪いものである。そして命ほど極端でなくても、当人や一部の人にとってのみ大きな価値を持ったものはとても多い。ゲーム機やファングッズ、多くの娯楽品などは、その代表格であろう。ファンの熱意の価値は、命のように無限大である。
だが価値としては無限大だからといって、価格が無限大になるわけではない。というより、何度も言っているように、そもそも金で置き換えられない。だからなのか、金以外の対価を求められることがしばしばある。
たとえばファングッズなどは、必ずしもAmazonで検索したら出てくるようなものではない。その瞬間に、現地に足を運び、時に並んで、苦労して、ようやく得られるものである。しかしその苦労がまた、そのモノと一緒になって価値になる。苦労や想い出など、交換不可能で大切な心を、交換可能な金に乗せてやりとりしているのだ。そうして文化は作られていく。
悪魔の取引
こうして考えると、転売ヤーが嫌われる理由も見えてこないだろうか。転売ヤーのやっていることは、交換不可能であるはずのものを、個人による買い占めによって価格操作権を得て、金という交換可能なプレミアに変換する行為である。この価格はしばしば暴騰する。自分の命の価値は価格にできないが、それでもどうしても価格にするのであれば、それは高額になる可能性が高い。命の価格に需要と供給の均衡点などあるだろうか?転売ヤーの扱うものは、命とまでは言わないまでも、本質的には同じ性質を持った「価値」そのものである。命に値札をつけて取引する存在を、我々は悪魔と呼ぶのではなかったか。
悪魔の取引ならば、たとえそれが転売ヤーの上乗せるプレミアが支払える程度のものであったとしても、絶対に取引に応じないと決めている人がいるのも当然である。金が惜しいからではない。野暮で、無粋で、文化に対する冒涜だからだ。冒涜の加担者になりたくないからだ。誰に言われるまでもなく、自分が自分のために大切にしてきたものを、傷つけたくないからだ。
まぁそうは言っても欲には勝てないもので、悪魔の取引に応じてしまう者もしばしばいる。それは悪魔が悪いのか、それとも取引に応じたものが悪いのか。こればかりはわからない。
実はみんなやっている
さて、この議論に納得できない人はけっこういるだろう。これについては、命という価値に値札をつけることにどれだけの違和感を感じられるかがあると思う。僕はこれを悪魔の取引と言ったが、我々は現実的には命に値札をつけるようなことをしている。先にあげた事故死の損害賠償や生命保険はその例の一つだ。また、経済的な理由も含めて医療を考えることもそうだろう。すべての人に最高の医療を施せるわけではない。リソースという現実が、青天井のコストを拒絶する。
価値は無限でもリソースは有限である。有限のリソースが、定量的なコスト、すなわち価格を形作る。リソースをどのように配分し運用するかは、各国で大きく異なる。価格はどこまでもコストであり、価値と明確な比例関係があるわけではない。これは普通のことだ。自分の人生を変えたプライスレスの名著も、ブックオフではしばしば100円で売られている。
古本で100円で売られることが名著の価値を落とすわけではないように、転売ヤーののせたプレミアが価値を表していることにもならないと感じられるのであれば、恐らく転売に対する忌避の気持ちはかなり薄いだろう。一方で価値が高価格に射影されることも現実的にある以上、転売ヤーののせるプレミアは本来交換不可能な尊ぶべきものであったはずだと感じられるのであれば、転売ヤーは無形の大切なものを冒涜する許せない存在かもしれない。この感覚は、国によって命を扱う医療の制度が異なるように、ゼロもイチもなく、人それぞれである。
よって、転売ヤーを肯定する人も否定する人も、どちらも存在するのは当然である。少なくとも転売が問題になる程度には肯定する人もいるし、その非難が目立ち嫌われ者という一般的な認識が出来る程度には否定する人もいる。残念ながら、どちらが正しいと断じることはできない。できないが、俺は転売ヤー大嫌いです。
コメント