必ずしも良くはない、とか、必ずしも悪くはない、と聞くと、また情報量のない言葉だな、と思う。情報量はないのだが、我々が好んで使う言葉ではある。
あえて言うなら、この不要な言葉をわざわざ言うところに、意味があるということになるかもしれない。
無意味な言葉
必ず良いことや、必ず悪いことなんてのはあるんだろうか。たとえば殺人は必ず悪いと思うかもしれないが、だったら死刑や戦争はどうなのか。法律で決まっているから良いのだなどというステージの話ではなく、そもそもの話としてだ。
必ず良いと言い切れることも、必ず悪いと言い切れることも、世の中にはない。つまり、世の中には必ずしも良くはないが必ずしも悪くもないことしかない。
したがって、「必ずしも良く(悪く)はないと思うが…」という枕詞には、何の情報量も含まれていない、ということになる。少なくとも論理的には。
それでもこの言葉は良く使われる。この理由として、3つのケースが考えられる。
必ず良いこと、悪いことがあると信じる場合
一つは、必ず良いこと、あるいは悪いこと、ないしそれに相当するものがあると信じる場合。たとえば特定の神を信じ、それ以外のことなど考えられない、という状態にあっては、必ず良いことや悪いことは存在するだろう。必ず良いことや必ず悪いことがあるのであれば、必ずしも良くないことも必ずしも悪くないことも存在する。
「必ず良い」「必ず悪い」と言い切れる前提を共有していると信じられる場合
一つは、前提を共有していると信じられる場合。たとえば我々が日常生活を送るにあたって、特殊な立場でなければ、殺人などの凶悪犯罪を「極限状態においては必ずしも悪いと言い切れない」などという前提で考えることはまずないので、そういったものが現実的に「必ず悪い」ものとして扱われても差し支えないだろう。
この状況はけっこうある。で、ここからディスカッションなどで今はそういう前提を取っ払う必要がありますよ、とアピールする際などに、「必ずしも〜」は出てくる。
立場の表明による牽制を目的とする場合
そして最後に、立場の表明による牽制を目的としている場合。これは、論理的な情報量などまったくないことはわかっている、あるいは知ったことではなく、そのうえで使われる。この用法は、たいてい逆説と一緒に用いられる。
- 「インフレが必ずしも悪いわけじゃないけれど、でも…」
- 「補助金が必ずしも悪いわけじゃいけれど、でも…」
- 「君が必ずしも悪いわけじゃないけれど、でも…」
この「xxが必ずしも悪いわけではないけれども」に込められた意味は、「いいですか、私はxxについてネガティブな評価をしているわけではありません(ただしポジティブに評価しているとも読み取れません)。そこは誤解しないでくださいね。そこ噛みつかないようにしてくださいね。そこじゃないですからね、この議論は。いいですね」だ。
自分はxxの反対派だから言っているわけではないんですよ、ポジショントークじゃないんですよ、ただ理屈で考えてあるべきと思うことを言っているんです、というニュアンスを出そう頑張っているわけだ。
「xxが必ずしも良いわけではないけれども」はその逆で、後に続く言葉は肯定的言葉になるが、それについて自分はxxの賛成派だから賛成しているんじゃないんです、と釈明しようとしている。
まぁ端的に言うと、「私は誰の敵でも味方でもありません」だろうな。
防衛的な態度
なんでこんな記事書いたかというと、Twitterのように文字数の制約が厳しい中でもこの本質的に無意味な表現が生き残っていたりするのを見るにつけ、何が言いたいんだろうなぁと思ったからである。
で、まぁ考えてみると、ああそうか、これは立場の表明なんだな、と思った。誰の敵でも味方でもないし、誰かを攻撃したいわけでもない、ただただ理屈の話なんです、ということが言いたいんだ。
逆に考えると、わざわざそんなことを言わないといけないと感じているということだ。実際、「コイツは敵か味方か」でしか判断しない者は本当に多い。いや、そちらのほうが多いのではないだろうか。なので、この無意味な枕詞はけっこう現実的な防衛的態度かもしれない。もっとも、残念ながら、このような微妙な機微の表現を目的とした文字列は、敵味方でしか判断しない者の目には入らないのであるが……。
我々の猿である本質を感じて、なんだかなぁと抑うつ的な気分になる。いやいやもちろん、論理的であることが必ずしも良くはないですし、党派的であることが必ずしも悪いわけではないですよ。ええ、もちろん、もちろん。ただちょっと、疲れているだけです。
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