甥のオンライン家庭教師をやめた

はじめに:ブログ記事を整理していたところ、この記事が下書きのまま1年近く放置されていたことに気づいた。けっこうちゃんと書かれていたのに、締めのところだけ空白のまま放置していた。多分、なんとなく投稿するのに気が引けたんじゃないかと思う。あまり楽しい話ではない。

ただ今読んでも個人的に色々と思うところある記事なので、追記して出す。

目次

現実は厳しい

GWに帰省し、姉や甥とも会ってきたが、そのままオンライン家庭教師をやめてきた。もう少し続ける気もあったのだが、実際に会ってみると、限界だと思ってやめた。だいたい1月くらいから始めたので、4-5ヶ月といったところか。あのまま続けると、恐らく僕がまいったので、辞めてよかったと思う。しんどかった。

姉が息子の教育に苦労しているのは知っていたので、兄弟として助けたいとオンライン家庭教師を引き受けたのはいいものの、やはり現実は想像より厳しく、非常に後悔させられた。初めて2ヶ月ほどの頃の記事がこれだ。

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ハッキリ言って勉強以前の状態だった。学力的には小学校中学年くらいに思えた。友人に甥の話をしていて、「とてももうすぐ中学2年とは思えなくてなぁ…」とこぼしたところ「え、中2?小2の話かと思った」と言われた。まぁそんなもんである。

僕はひたすら目線を下げ続け、また運用もゼロトラストへと近づけていった。「疑わしきはやってない」と考えるようになった。その必要があった。実際、やってなかった。少しでも甘い感じを出すと、甘えきって弛緩した。いや本当に、弛緩する、という表現がぴったりきた。可能な限り楽をしようと、逃げようと、誤魔化してその場しのぎをしようとしていた。

進歩はあった

それでも、続けたことで多少の成果はあった。分数はおろか割り算も怪しかったし、文字式なんか扱わせたら何を考えているのか脳みそを開けたくなるような計算?を何度も見せられたが、何度も何度も何度も何度も何度も同じことをいい、というかそもそも計算式の書き方がまず中学生のそれではなかったので、計算式の書き方から教え、しつこくしつこくしつこくやったところ、一応中学生っぽい計算を少しはできるようになった。一次方程式まではなんとかいった。英語もどこまで理解しているか甚だ怪しいものの、少しは英文らしくなった。

とはいえレベルはお察しである。本当はもう少しまともなことを教えたかったのだが、正直、ゼロトラストしかもオンラインでは、暗記以外非常に難しい。確認しなくてはいけないからだ。確認とはつまり小テストだ。やれば確実にできる系の問題を小テストにする。そうするとどうしても暗記になってしまう。

計算問題はあらかじめ出題する内容を課題としてやらせていたが、それさえも油断すると「こっそり電卓を使う」などクソみたいなことをするので、計算過程をリアルタイムに監視し怪しいところがないかチェックする必要があった。計算過程を見て、理解を見るしかなかった。めちゃくちゃに時間がかかった。

とんでもなく手間暇がかかり、僕の貴重な休みは削られ、ストレスも半端なかったが、一応多少成績には反映されたところがあったらしい。少しはやるべきことをやったからだろう。それはめでたいことかもしれないのだが、「ここまでやってこれか」という思いが拭えず、僕は教師には向いていないなと思った。

嫌いになる覚悟はなかった

それでも少しは進歩が見えてはいたから、もう少し続けるつもりもあったのだが、GWに帰省し、直接会って指導した時の、あまりの不真面目さ、というか「愚図って姉や母(彼の祖母)の同情を買って僕からは逃げ回り、ことが済めば何事もなかったかのような顔をする」という態度を見て、あー、これはもうダメだな、とわかった。身内じゃダメだ。第三者の介入がいる。

このまま続けたら、僕は甥のことも、そして助けたいと思った姉のことも嫌いになっていただろう。オンライン家庭教師を引き受けた時、まぁ甘ったれみたいだから嫌われても仕方ないな、でもそれで姉が助かって甥の成長を助けられるなら……なんて今にして思うと甘いことを考えていたのだが、嫌われる覚悟はしていても、嫌いになる覚悟はしていなかった

最後の仕事

僕は「塾に行け」と発破かけるのを最後の仕事にして、早めに家に帰った。甥は僕に叱られて泣いていたが、その泣き顔さえ僕には空々しく思え、まったく感情を動かされない自分に少し寒気を感じた。

でも多分、あの涙に意味なんかないだろうと今でも思っているし、恐らくこの直感は正しい。彼は決して反省などしていないと確信していた。それでもいつか少しでも思い出すことがあればいいくらいの気持ちで、僕は言葉を紡いでいた。きっとそれも無意味なのだろうけれど。

まぁ本質的なところはとても変えられない短い間ではあったが、一応、個別ならばなんとかなるんじゃないか、と思える程度の学力にはなったんじゃないかな……。最低限の仕事はしたと思う。いや、最低限というか、正直100万円もらってもいい仕事をしたと思っている。

先日、塾に行き始めたという連絡が姉からきた。一応楽しそうにしているらしい。続けばいいんだが。今彼に必要な人は、甘やかしてくれる人でも優しくしてくれる人でもなく、やるべきことやらせる人だ。今ならまだ、ツケは大きくない。

学びはもちろんあった

その場しのぎを続けると、いつか先送りできなくなる日がくる。その日は後になればなるほど、破滅的で、どうにもならない大きな負債になる。彼を教えながら、僕は自分のことや、職場の後輩のことを考えた。数ヶ月だったが、僕もたくさんのことを学んだ。

実際、そうだな、陳腐なこと言うけど、僕もまた生徒だったと思うこともあるよ。学びはあったさ。僕はたいていのことから学びを得るように生きてきた。今回もそうだ。でも、もうやりたくないな。

誰が最初に言ったか知らないが、人生に無駄なことはない、とは生きていると一度は聞く言葉だと思う。僕はこれ自体はそのとおりだと思う。だが世の中に絶対的なものはない。どんなことも、いくつかの前提条件に基づいて初めて正しいとかそうでないとか言える。この言葉もそうだ。したがって、この言葉を表面的に納得する前に、この言葉が成り立つための一つの重要な制約条件を指摘しなければならない。

それは、人生に無駄なことはない、とは効率を無視した言葉だということだ。このような言い訳が必要になることなんてのは、たいてい筋の悪い再生エネルギーのようなもので、極めて非効率的であり、それをしなくてはならない理由がなければ普通はしないし、する必要もないし、すべきでもない。

もっとも、突き詰めて考えればそもそも人生に目的などというものはない。効率とは目的を設定して初めて出てくる言葉だ。したがって、人生という視点で考えた時、目的は意味を失うため、効率もまた意味を失う。だから、人生に目的などないという制約条件のうえであれば、人生に無駄なものはない、は確かに正しい

だがそれは究極的な話であって、現実の僕らは短期的にも、中長期的にもなんらかの目的をもって行動している。少なくとも僕はそうしている。したがって、達せられない目的のために動くことを僕は無駄だと考えるし、かといって目的もなく動くこともできない。

僕には恐らく2つの道があった。1つは、嫌われる覚悟だけではなく嫌いになる覚悟をもって、やるべきことをやらせること。つまりどうあっても目的を完遂すること。1つは、目的そのものをなくすこと。人生として、彼と関わること。

僕にはそのどちらもできなかったということだ。まぁ正直これはもう仕方ないなと思っている。誰だってそうじゃないかな。むしろ僕はかなりよくやったほうだと思う。後はもう、彼の人生だ。

終わりに

という記事を下書きのままにしていました。せっかく書いたのに寝かせていたのは、自分でもつらいことだったからだと思います。ただ思うところのある記事だったので、最後のほうを追記して公開することにします。

現状を付記すると、甥はその後塾こそ続いているものの、成績はまた低下したようです。なんかもう、行ける高校あるの?くらいの感じで、さすがに祖父母のほうがちょっと焦っている感じです。一方の姉はもうどこか諦観しているような感じ。

正直、そうなるかなとは思っていました。塾講師(個別だから多分バイトの大学生)の目的は「顧客(生徒の親)から謝礼をいただくこと」であって、一人ひとりの生徒の成績を上げることではないからです。生徒が嫌がらず通っていて、そのことにスポンサーである親が一定の満足を覚えれば、それでミッション・コンプリートなのです。

僕も大学時代に一年ちょっと個別講師をしていたことがありますので、バイト講師の感覚はわかるつもりです。進学系でもない個別塾講師のかけるプレッシャーなど、僕が彼にかけたものと比べればうんこでしょう(個人的には大したもんだと思わないんですが、少なくとも彼の人生では一番大きな圧だったんじゃないかな)。そして圧がなければ、彼はやりません。やるべきことをやらないので、必然的に成績は落ちます。

でも、続いているだけいいですよ。彼はその塾さえも以前であれば続かなかった可能性があります。彼は今まで続いた習い事がないのです。

まぁなんだかんだいって、やったことを無駄だったとは本当に思っていないです。彼は少なくとも四則演算はできるようになったし(読み書き計算はできないとさすがに人生詰むので)、僕は今まで考えてこなかったことについて深く考える機会と経験を得ました。短い間だったけれど、多少は姉の助けにもなれたと思います(あの苦労を実際にしたから、姉も僕の話には少し耳を傾けてくれていると思います)。

ただまぁ、あれ以来彼は僕に対する接し方がわからなくなったようです。今までこういう関わり方をした大人はいなかったんでしょう。まぁこれも仕方がないと思います。

しばしば、彼はどんな気持ちで、いったい何を考えているのだろうかと思ったものですが(今も思います)、あまりにも僕と性格が違うし、興味関心も異なるし、また所詮リモートの繋がりですから、わからないのです。TCP/IPにのせると欠落するアナログの情報は確かにあるんですよね。

僕は他人の気持ちなどどうあっても見えないのだから考えるだけ無駄だというのが基本的な考え方なのですけれど、それは他者の気持ちなどどうでもいいということではありませんし、やはり身内のことではあるので、気にはなります。どういう気持ちで僕の講義を受けていたんでしょうねぇ。彼の視点からは、違うストーリーがあったことでしょう。

まぁ、なんでもいいんですけれど、なんとか高卒の資格だけはとって、なんらかの仕事を得られるようになるといいんですけどね。トヨタの期間工とかいいんじゃないの?と思っていたりするんですが。手先は器用ですし、ああいうの嫌いではなさそうだけどな。色々社会的なことも学べるでしょうし。

なんにしても、教育とは本当に厄介なものだなと痛感しました。僕みたいなのはそもそも勉強が好きですから、どうしても教育に過度な意義を見出しがちですけれど、実際そんなもん誰が求めてるの?と思います。皆が本当にほしいのは教育ではなく仕事でしょう。まぁその仕事は当然相応の能力が必要なんですが、その能力を学校教育では培えない現実があるんですよね。

実際高卒の資格だけは取ってといいましたが、それも高卒じゃないとハードモードどころの話ではないからというだけの話で、彼が高校で大切なことを学べるから行った方がいい、と思っているわけではないんですよね。というか、多分彼は高校という場からは何も学べないだろうと正直思います。それでも行くべきですが。

まぁね、僕も他人のことをとやかく言えるほど人生安泰ではないんですがね。というか今もしんどいくらいでね。だからこそ、と思うこともあったのですが。やったことが無駄ではなかったと思っていますけれど、意味があったかは、どうなんだろうな。まぁ、少し、疲れました。

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