当たり前だが、「Aはすごい」と「A以外はクソ」は論理的に等価ではない。等価ではないが、文脈次第でそのように「感じさせる」ことはできる。それには、自明ではない暗黙の仮定を利用する。これは一般によく使われる罵倒方法の一つでもある。
称賛が悪意に変換される時
「Aはすごい」。これはAを称賛する表現だ。Aを称賛することは、A以外の人間を罵倒することにはならない。
だが、AとBがいるところで、ことさらにAばかりを称賛したら、Bはどのように感じるだろう。場合によっては、否定的な感情が芽生えてもおかしくない。
Bはこのように考えるかもしれない。
すごければAを称賛するのであれば、同じようにBもすごい場合Bも称賛されねばならないが、Aのみが称賛されBが称賛されないならば、それはBがすごくないからだ。
これは一つの考え方である。しかし、AとBが同じようにすごいとしても、AとBの両方を称賛しなければならないわけではない。論理的には、Aに対する称賛はBを評価しないことに直接繋がらないはずだ。では、なぜそのように考えられるか。
称賛には、比較のニュアンスがあるからだろう。絶対的な評価として称賛されることもあるが、何かと比べて優れている、と相対的な評価としてされることもある。そして、その境界線は明確ではない。
Aが称賛に値する行為をした直後などであれば、それは絶対的な評価と見做されるかもしれないが、特に何をしたわけでもなく、普段の仕事ぶりや生活態度を称賛した場合、相対的評価の意味合いが強く感じられる。その場合何と比較しているかといえば、もっとも近い場所にいるBだろう。
妥当な理屈に思えるが、そう言い切れるわけではない。実際、Aを褒めるなら近くにいるBも褒めないとBもけなすことになるなんて言われたら、おちおち人を褒めることもできない。
当事者間にしかわからない推定9割の悪意
結局はケース・バイ・ケースである。その時の状況や人間関係などが複雑に絡み合って、感情的な評価は下される。それはいくつもの仮定に基づいてなされる。その仮定は自明ではなく証明もできない。
つまり、第三者からは必ずしもそうだと言い切れない、しかし当事者間ではかなりの確度で共有できる仮定に基づくと、第三者的には「罵倒しているとは言い切れない」が当事者間では「罵倒されているとしか思えない」状況を作り出すことができる。
このように考えると、よく工夫された悪意の表現は想像力の発露といえる。それは一種の才能かもしれない。個人的には、その力を法に触れず他者を傷つけるためではなく、人を喜ばすため、社会を明るくするために使ってほしいとは思う。
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