トリエンナーレの例のアレと補助金と自由について

トリエンナーレ訴訟、二審も名古屋市敗訴 市長怒り「とんでもない」:朝日新聞デジタル

トリエンナーレの例の訴訟、名古屋市側が高裁でも敗訴ということでニュースになっている。

この問題について、一番話題になっていた当時、僕は態度を決めかねていた。なのでこのブログでも特に話題に出していない。

なのだけれど、今は態度が決まっている。

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表現の自由ここにあり

司法の判決は妥当。彼らには表現の自由がある。彼らは表現に不自由していないことが二審においても証明された。よかったよかった。

嫌なら最初から「俺の気に入らないものは展示するな」という契約でも結んどけばいい(そういう契約を結んではいけない、ということはないだろう)。もっといえば、そもそも芸術祭とやらに国や自治体が金を出す必要性を僕は感じない。

さて、これが僕の態度であり、恐らくこれがfix、ここからは動かない。それよりも、なぜ昔は態度を決めかねていたのかを考えたい。僕の何が変わったというのか。

芸術祭に公金を出すことの是非というそもそも論

当時、僕はまだ芸術振興というお題目に公金を出すことについて肯定的であったことが一番大きいと考えられる。しかしその結果として出てきたなんとか像や燃え盛る天皇陛下や津田大介の顔を見て、果たしてあれにそれだけの価値があるのか?というところでどう考えても無いとしか思えず、この矛盾を感情的に処理できずバグってしまったんだと思う。

今は「そもそも芸術祭のために自治体が金を出す必要はない」という考えに至ったので、非常にスッキリしている

金を出した後に政治的中立だのなんだのといってイチャモンをつけるのは権力の濫用に他ならない。だが金を出すんだから口を出させろ、というのは至極もっともな理屈だとも思う。なので、気に入らないものにはやっぱりを金を出さないだろう。たとえ今回司法の場で勝利したとしても、補助金を配るのは結局政治家であり役人である。彼らには「次は配らない」という自由がある。表現の自由と同じようにね。

補助金に自由などない

散々言われていることだが、そもそもこの裁判は非常に倒錯している。もし本当に表現が不自由ならば、この司法の判決はなんだ?となる。逆に、もしも敗訴したならば、確かに表現の不自由があると認めなくてはいけない。つまり、試合の勝敗と勝負の勝敗が逆転している。それにも関わらず、彼らは全力で試合に勝とうとしている。そして彼らは、我が国の表現の自由が健在であることを証明することに成功した

これが茶番でなくて、なんなのか。

結局、補助金という有り余る税金の使いみちに困った役人がひねり出したクソに群がるハエどもの構図でしかなかった。そのクソに芸術振興という美名を糊塗しただけに過ぎない。クソやハエの良し悪しを論じたところですべてが虚しい。

文化は本質的に自由なものだ。そして補助金の枠組みの中に本当の自由など存在しえないという当たり前のことを、僕は認めるに至った。

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