いつの間にか、Twitterのツイート数が3,000を超えていた。自分でもちょっとびっくりしているが、「(誰に聞かれるでもなく)ツイートする」という本質は、場末のブログを延々と続け、誰にも見せない、というか見せられないアナログの日記を14年続けている僕には合っていたのかもしれない(そういえばちょうどTwitterのサービスが開始された頃である)。
Tweet、というところにTwitterの本質が一つあるのは言うまでもないとして、実際に使ってみて思ったのは、Retweet(リツイート)にもう一つの本質があるのだな、と。TweetとRetweetは本質的に違うものだと感じられるが、うまく合わさっている。Twitterの創業者が複数人いることが影響しているのかもしれない。
意外にも楽しめている
Twitterのアカウントを持っている。といっても最近の人はアカウントくらいだいたい持っているだろうが、僕の場合はけっこうちゃんとツイートもしている。アカウントを作ったのは2015年だが、真面目にツイートしだしたのは一昨年(もう一昨年か!)の2018年の中頃くらいだったかな。
Twitterのサービス開始が2006年だから、実にいまさらといったところなんだが、SNSっていうやつは基本的に自分には合わないと思いこんでいたんだ。
が、やってみると案外続いていて、今は3,000ツイートをちょっと超えたところだ。これが多いと感じるかどうかは人によりけりだと思うが、少ないツイート数ではないと思う。
ツイートの内容はもっぱらニュース記事に対するコメント、あとは本当に日々の”つぶやき”で、ブログの宣伝などは特にしていない。
が、ブログに対する影響がまったくないわけでもない。Twitterをやるようになってから、Twitterにブログ記事が貼られた時の見え方も多少意識するようにはなって、Twitterカードが表示されるようにだとか、featured imageを設定したりだとか、多少の対策をするようになった。
が、どうもTwitter文化と自サイトはあまり合わないような気がしていて、Twitterに記事を出していこう、とは今の所思っていない(とか言っているとそのうちやりだすのがブログのジンクスではある)。
自サイトには合わないが、自分にはそこそこ合っているかもしれないと最近思う。自分に合うSNSなんてないと思っていたので、Twitterを自分なりに楽しめているのは意外だった。
3,000ツイートばかりしてようやく、Twitterの本質的なところが朧気ながら見えてきたような気がする。Twitterの本質とはなにか、とは恐らく散々語られていることだとは思うのだが、あまり関心のない僕はそういった意見をきちんと拝聴したことはないし、またこういう正解のないものは、まず自分の意見を持つことが重要だと思っている。
なので、2020年の記事としては底の浅いことを書いているのかもしれないのだが、まぁ気にせずつらつらと一ユーザーの思うところを書いていこうと思う。
失われていた生を刻み込むTweet
まず、Tweet。これは間違いなくTwitterの本質といえるところで、これを否定する人はいないだろう。TweetがなければTwitterそのものが成り立たない。
ただこのTweetというやつは、本来は多分に内省的な行動だと思う。別に誰かに聞かせたいわけではないからだ。それをこのOpenなインターネットの空間上に吐き出すところに、Tweetの業がある。
そこにあるのは幾許かの自己承認欲求だろうか。それはあるかもしれない。あるかもしれないが、あまり本質的ではないように思っている。というのは、たとえTweetが自分のアカウントに紐付かなかったとしても、何一つ反応がなかったとしても、僕は多分Tweetするからだ。
Tweetの根底にあるのは、自己承認欲求というより、とりとめのない自分の想いを、どこかに刻んでおきたいという、お釈迦様に怒られそうな業だという風に自分は感じる。だから、インターネット上のどこかに保存され、そのうちに名前も知らない誰かの目にふと止まることもあるかもしれない、その程度の緩さが心地よい。
このTweetの感覚は、自分がブログを書いている感覚に近いところがあるな、と思う。ブログよりもだいぶ手軽だけれど、僕はどちらかというと長文でしっかりと書いていきたい方なので、ブログのほうが性に合っているものの、多くの人は短い文字数を是とするTwitterのほうが親しみやすいに違いない。
また、こんな風にまとめ始めると、Tweetの本質からは離れてしまうのだろう、とも思う。Tweetとは、ともすれば消えてしまいそうな一瞬の思考・感覚を、ほんの少しでも現世にとどまらせようとする淡い抵抗だと、そんな風に感じられて、それはブログにはない特質だ。それがために、ブログとは別にTwitterを続けているのだと思う。
フォロワーは本質ではない
さて、それだけだったらばTwitterに今日の隆盛はなかった。恐らくこれまで100億人が指摘していると思われるが、Twitterにはもう一つ重大な本質がある。Retweetである。一応言っておくが、フォロワー制度では断じてない。
先に、たとえアカウントがなくても僕はTweetしただろう、と書いたが、現実にはTwitterはアカウントありきのPlatformである。そのため、すべてのTweetは発信者のアカウントと紐づく。そうすれば当然、Identityが生まれる。
アカウントにはフォロワーがつく。フォロワーは数値として目に見える。言ってしまえば、そのアカウントがどれだけ人気があるか、という定量化された指標である。
そのことをもって、Twitterをフォロワーをかき集めて自己満足に浸る自己承認欲求時代の象徴のように見る向きもあり、まぁその一面はあるかもしれないが、Twitterをあまりしない人が抱く表層的なイメージに過ぎないだろう。フォロワーというやつそれ自体は、あまり意味がないことを、Twitterをやるものなら知っているはずだ。
点と点を共感で繋ぐRetweet
本当に重要なのは、Retweetである。人と人を繋ぐこのRetweetこそ、本質である。フォロワーというやつは、このRetweetを発生させやすい仕組みの一つに過ぎない。
Tweetが点を打ち込むものなら、Retweetは点と点を繋ぐものといえる。つながれた点は線になり、線は面になり、やがて立体となる。現実世界にすら影響を及ぼし始める。
この(恐らくは創業者もこれほどとは思わなかった)強大な仕組みが、今日のTwitterを築き上げたように思う。
人は何故、Retweetするのだろうか。僕がRetweetするパターンはいくつかある。
- 共感のRetweet「このTweetは本当にそうだなぁうんうん」
- 称賛のRetweet「へー、そうなんだ、勉強になった」
- とりあえずRetweet「どう反応していいかわからんからRetweetしとこ」
なんか適当に名前をつけたが、便宜のため僕が今勝手にそう読んだだけなので気にしないでほしい。
下2つはRetweetの副次的な機能というべきもので、そういう風にも使えるが、あまり本質的ではない。いいね、の代わり程度か。ブログ記事の紹介は「勉強になったな」という意味でRetweetすることがあり、技術系のクラスタでは(自分含め)そういう人もよくいるが、あまり広まらない印象だ。
やはり、本質的なのは共感のRetweetだろう。この機能によって、点に過ぎなかった誰かの内省的なつぶやきが増幅され、時には質量を持った実体として現実世界に顕現する。
RetweetはTweetの力の向きを変える
このRetweetの根本的な思想は、Tweetとは大きく異なるように思える。Tweetはどこまでも内向きなものだが、その力のベクトルを外向きに変えるのがRetweetと考えられるだろうか。そうすることで、力の合成が始まり、それはやがて大きな塊となる。
つまり、TweetとRetweetは本来的に真逆の方向性を持っていて、それでいながら掛け合わせることで大きな力になったわけだ。Tweetの発想とRetweetの発想は、別次元のものだと感じるが、両者の掛け合わせに成功したのは、Twitterの創業者が複数いたことも影響しているかもしれない。
「Twitterの歴史と思想、4人の創業者たちのドラマ~Twitterはどこから来て、どこへ向かうのか~【前編】」なんかを見ると、TweetとRetweetがどのようにして掛け合わされたのか、なんとなくわかる気がするし、それは一人の人間の思想だけでは実現されなかっただろう。そういえば、ツイッター創業物語、積ん読していたな。今度読もうか(読んだらここに書いてあることを書き直したくなるかもしれない)。
そうして作られたサービスは、恐らくは創業者の想像を超えて巨大になり、その影響力も甚大になった。正直言うと、広まりすぎたTweetは僕には共感の化け物のように見える。点が線になる、くらいの緩い繋がりアンプで留まれば、それは心地よい関係を作る楽しいものなのだが、耳を劈く拡声器になってしまうと、もはやただの騒音だ。しかし、Twitterにはピークカットの機能がない。
それが悪いわけではないだろう。僕にとって騒音でも、人によっては遠隔地に声を届ける唯一の手段なのかもしれない。ただ、それは僕が求めるものではない、というだけで。
まぁ、心配せずとも僕のアカウントはせいぜいフォロワー40程度の豆粒みたいなものなので、Twitterの再現のないフィードバック機能にやられず、楽しく気楽にTweetができるというものである。以前、Twitterが一番楽しいのはフォロー・フォロワー100程度の時だ、というようなことを言っていた人がいたが、きっとそういうことなのだろうと思う。
Twitterの本質
恐らく、Twitter自体は「Tweet」と「Retweet」の機能さえ残せばTwitterたる。
それ以外の機能は、本来の使われ方とは別の意図を実現するためだが、人間Twitterを使うために生きているわけではないので、どうせならTwitterでできたほうが便利だよね、ということは現実問題としてあり、またTwitter社としても利用者が増えることはWelcomeなので、Twitterの根幹を揺るがさない程度には様々な使われ方を許容しているのではないか、と思う。
だから、返信機能を使った殴り合いやいいね監視は、本来のTwitterの意図とは大きくかけ離れていることだ。それで息苦しくなっちゃってTwitterをやめる人も多くいるようだが、そんな時はTweetとRetweetのみに徹底すれば、比較的心穏やかにTwitterを楽しめるのではなかろうか。
コメント
コメント一覧 (2件)
こんにちは。いつも拝見しております。
「Tweetとは、ともすれば消えてしまいそうな一瞬の思考・感覚を、ほんの少しでも現世にとどまらせようとする淡い抵抗だ」という言葉が、そのまま石川啄木の短歌観と一致していて驚きました。以下に引用します。
一生に二度とは帰って来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌といふ詩形を持つてるといふことは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。(間)おれはいのちを愛するから歌を作る。おれ自身が何よりも可愛いから歌を作る。
(石川啄木「一利己主義者と友人との対話」)〔『石川啄木全集 第四巻』(筑摩書房)所収〕
啄木ファンなら誰もが知る有名な文句です。
短歌とツイートという違いはありますが、表現されることを求めてやまない一瞬の感情がある点は同じですね。
何かとせわしい現代社会にあって、そうした感情の存在に気づき、捉えようとすることは、素晴らしいことだと思います。
以上、あまりに一致していましたのでついコメント差し上げました。
tamaさんは啄木を愛読したことがあるのでしょうか? または、その他の文学作品に親しんでいるのでしょうか?
こんにちは。コメントありがとうございます。
僕は詩には疎いので、石川啄木のその文句も初めて知りました。偶然とはいえ、詩人と感性的なところで一致するところがあるのなら、僕も捨てたもんではないかもしれないですね。
中学くらいから大学までは少しばかり読んでいました(理系の中では珍しいと思います)が、
働きだしてから読書といえばほとんど技術書ないし実用書になってしまいました。まだ僕にも文学に通じる感性が残っているのだとすれば、嬉しいことですが。
Twitterを短歌になぞらえた言説はそういえば見た覚えがあります。Twitterはやや卑近過ぎる気もしますが。本質的なところは近いのかもしれないですね。