アメリカで猛威を振るってきたポリ&コレだが、最近は揺らいでいるらしい。米国の企業や大学が「多様性・公平性・包括性(DEI)」の見直しを始めたようで、ナスダックの取締役に女性やLGBTを一定数含めろというルールが裁判所で無効にされたとか、ウォルマートやボーイングがDEI関連の取り組みを縮小したとか、まぁいろんな記事が出ている。
LGBTや女性の取締役選任ルールは「無効」 米企業で「過度」の多様性見直し進む - 産経ニュース
米国人ではない僕でも、彼ら随分としんどそうだなと思っていたので、これはまぁそうだろうなと言った感じだ。多様の中に入れてもらえない人、けっこういそうだから。
多様性の中に僕がいない
多様性自体は否定するような概念ではなく、むしろ僕のようなはみ出しに者にとっては本来有り難い概念だ。しかし現実に多様性の名の下に行われていることは、ただの抑圧でしかない。しかも、どうやら僕という存在がその多様性の中に入れてもらえていない感じはヒシヒシと感じる。
そんなわけだから、僕は多様性というのは共産主義みたいなもので、その理念は確かに見所があるものの、共産主義の実際の運用が独裁者による支配であったように、多様性についても似たようなもんだと思っているし、まぁそう思う人が増えてきたんだろうと思う。
お前の性別、多様じゃねぇから!
実際、多様性について考えたときにまず疑問に感じるのは、そもそも多様性というものの中身を、いったいどこで誰が決めているのだろう、ということだ。まぁこんなもんは定義するようなもんじゃないかもしれないのだが、実態として「女性」「LGBT」「人種」に限定されているように見える。これらは確かに多様性の一部だが、 世の中にはもっといろんな属性があるし、少数派的な属性のために困っている人も多かろう。
例えば、取締役に「若者」や「高齢者」を一定数含めろとか、あるいは「地方出身者」を増やせとか、そういう話はほとんど聞かない。他に「宗教」とか「経済的格差」の視点もあると思うけど、それも聞かない。困っている具合で言えば「障害者」なんて最たるものだと思うけれど、もう全然話にも出てこないよな。
そんなわけで、どうにも「多様性の選び方」に政治的な意図を感じずにはいられない。
そして何も言えなくなった
こうして、「多様性」の名の下で行われる施策が、逆に市民感情にヘイトを蓄積させている傾向があるように思える。
たとえば最近、東京都がSTEM教育の体験イベントをやったのだが、なぜかこれが「女子限定」で、それこそ性差別ではと批判を浴びている。
東京都「女子限定」の企画に市民反発、差別指摘も | アゴラ 言論プラットフォーム
この記事で面白かったのは「体験格差を公的機関が助長」という批判で、確かにと思った。実際、日本で女子だけSTEM教育を受けられていないなんてことはない。すなわち、女子にだけ税金で体験を提供することに合理性はないだろう。市民反発という見出しも、男性はもちろん、男児しかいない家庭の女性だって不公平だと感じるだろうから、まぁわかる。
しかし個人的に一番問題だと思うのは、それを口にすると「差別主義者」のレッテルを貼られる空気感だ。Twitterでは怨嗟の声が多く見られるが、そういう人たちも現実では黙っているだろう。
そうして黙っているうちに取り組みはどんどん進んでいき、しかもそれらはわけのわからない抑圧的な形になっていることが多い。たとえば以前取り上げた「女性らしくと言ってはいけない女子校」など矛盾の象徴みたいな存在だろう。

この女子校では「女性らしく」がNGワード入りしたようだが、しかし性別を入学資格にすることは変えないらしい。なんだろうなこれ。
こういうのを見ると、もはや理屈ですらなく、誰かの気分で謎の基準が決められているような感じだ。知らない間にNGワードのブラックリストが作られ、それを知らずに言えば差別主義者として糾弾されるわけだ。
違和感は成功の証
今こうして「多様性」や「差別撤廃」が違和感を覚える形になっているのは、逆説的だがその目的が既に果たされているからではないかとも思う。
例えば、戦後間もない時代なら「女子に教育なんて……」という空気が実際に存在し、女子を優遇する取り組みは理解を得られたかもしれない。しかし、今の日本では男女間に教育格差があるとは言い難い。これは、日本人が長年にわたり平等を目指して努力してきた結果だ。
だからこそ、「もう既に平等なのに、これ以上やるとただの不合理な優遇だ」と感じるわけだ。多くの人が重視しているのは機会の平等であって、努力して平等を達成したからこそ、過剰な優遇と見られて逆にヘイトを生む構図になっている側面がある。
まぁそれが多様性というキーワードがあったからなのかは知らんけれど、今一度字義に戻って、多様性は誰かが決めた一様なものを優遇することではなく、その名のとおり多様な異なる人の存在を受け入れる概念だと再認識する段階にきていると、なんだか多様性なるものの外側にいる多様ではない人扱いの僕としては思うのである。
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