最近の相次ぐ過労死の報道を見ていると泣きたくなります。過労死は今に始まったことではなく、昔から日本に蔓延る大問題ですから、国民みんながよくよく考えなければいけないことです。ただ、報道で「長時間労働」ばかりがフィーチャーされている点が気にかかります。それは二次的な副産物で、根っこではありません。場末のブログですが、どうしても言いたくなりました。
長時間労働が最大の原因か?
「東京新聞:電通に立ち入り調査 新入社員過労自殺で東京労働局:社会(TOKYO Web)」の記事に、以下の文言がありました。
労災認定の決め手となった長時間労働は、過労死の最大の原因として国が削減を目指しており、同社の労務環境を調べる必要があると判断した。
長時間労働が過労死の「最大」の「原因」……本当にそう考えているのかな。過労死のメカニズムを医師の視点から解説した記事「【電通過労死事件】なぜ人は過労で死亡するのか 医師の視点(中山祐次郎) - 個人 - Yahoo!ニュース」において、以下のような文言があります。
ここで大切なことは、「労働時間の長さ」が長ければ長いほど、精神疾患から自死に至る危険性は高いというわけではない点だ。…(中略)…もちろんただ残業時間の長い短いだけではなく、その「ストレス濃度」によっても大きく違うだろう。おそらく罵声を浴びせられ否定され続けたら月30時間の残業だって、いや月0時間の残業だって心を病んでしまうだろうし、本当にやりたい仕事をやりたいように自律的にやらせてもらっていたら月200時間の残業だってこなせるかもしれない。
これは非常によく理解できる話です。特に、一度でも「ブラック」と呼ばれるような環境に身を置いた人であれば、痛いほどよく理解できるはずです。引用元の記事においては、身体の疲労に起因した脳梗塞や心臓発作のケースも紹介されていますが、精神的疾患が原因によることのほうが多いのではないかと思いますし、また問題になっているのもそれでしょう(肉体の疲労が精神に影響するのはあるでしょうが)。今回の電通の事件においても、残されたツイートから度を超えたパワハラが日常的に行われていたことが伺えます(参考「「体も心もズタズタ」電通美人社員が自殺前に遺した地獄ツイート - エキサイトニュース(1/2)」)。
結局、環境の問題であり、もっと言えば環境を作る「人間」の問題であると思います。これは会社に限ったことでもありません。ですから、時間だけ規制しても、人間が変わらなければ、表向きの労働時間は減ったとしても、その実態は変わらず、問題は起き続けるでしょう。
恐らく規制に関わる人たちであれば、このあたりのことは理解していると思います。理解を得られやすい客観的な指標として、取っ掛かり用いているのが実際のところなのではないか、というのが私見(希望的観測?)です。
個人の対策は「逃げる」こと
労働時間という切り口は本質的ではないかもしれませんが、意味はあると思います。ブラックな環境に身を置かれた個人が対策するうえで、客観的かつわかりやすい大義名分として精神的な後押しになると思うからです。対策とは、「逃げる」ことです。
環境を変える方法
ブラックは環境が問題なので、環境を変える必要があり、その端的な方法が「逃げる」ですが、他の選択肢として、「戦う」と「耐える」もあります。
「戦う」はオススメできません。水鉄砲一本で大砲持った大群に単身突撃するようなものです。「耐える」は、学校の卒業のように、ゴールテープが決まっていれば、一つ選択肢になります。
しかし、とてもゴールまで耐えられない場合や、そもそもゴールがない場合、抜本的な対策はその環境から「逃げる」ことです。会社等では部署の異動など職場変更の画策、いっそ退職。学校であれば、転校もOK(大学以降であれば編入、院転、中退など)。
現実的に容易な選択肢ではありません。しかし不可能でもありません。たとえすぐにできなくても、選択肢には入れて欲しいと思います。それだけで、心が少し楽になります。少なくとも、環境が変わることには期待しないほうがよいでしょう。一度ブラックに染まった環境に、自浄作用はありません(あればブラックになりません)。
力が少しでも残っているうちに
「逃げる」という言葉はネガティブに捉えられがちですし、非難する人、理解できない人も世の中に相当数いるのは事実です。でも、その先にあるのは?昔どこかで「過労死した人たちは、少なくとも逃げなかった人たちなんだと思う」と言う人を見ましたが、これには思わず頷いてしまいました。
一方、「逃げる」ことを肯定する人でも、「死ぬくらいなら辞めればいいのに」という意見もよく見ます。何故逃げなかったのか、と。そのとおりです。第三者から見れば。
逃げられないのは、物理的制約でも経済的制約でもなくて、多くの場合、精神的制約なのだと思います。外から見ると、自縄自縛しているのですが、本人にとっては必ずしもそうではない。なぜなら、その環境が世界だから。世界からどうやって逃げたらよいのか。同じ世界である以上、どこにいってもやっていけるはずがない。さらに自己評価も極限まで下がっており、自分が悪いと思い込んでいる。
心が傷つき、疲弊していると、正常な判断が難しい状態になります。また、一つの狭い世界しか見えないので、客観的な「目」を持てません。まぁ洗脳みたいなもので、こうなると本人の力だけで抜け出すのは困難です。そうして、ついには生きる力そのものがなくなってしまう。死が甘美な誘惑に見え始める。少しでも心と身体にエネルギーが残っているうちに、何か行動を起こさないと厳しい。
規制の意味
本人と周囲の努力、気付きが重要です。そのきっかけになりうるシステムの一つとして、長時間労働の規制の徹底は、本質的ではなくとも意味はあるというのが私の意見です。
とにかく、その環境が異常なんだと気づくこと、自分自身でそう思えることが必要です。規制の徹底は、その一助になりうる。
客観的に明確に「違法」であると断言できる
ブラックな環境ではしばしば長時間労働が常態化されるので、たとえ本丸ではなくともその環境を否定する客観的な指標があることは、環境の異常さに気づくきっかけになるかもしれません。また、明確に、世間的に許される環境ではないのだと、断言できるのは大きい。
なにかしら建前の正論で責めたてられるようなことがあっても、そもそも身を置いている環境が違法であれば、その正当性は揺らぎ、世間や周囲の理解も得やすい。
他の世界に関わる時間がもてる
一日は24時間ですから、拘束時間が異常に長いと、それ以外のことができなくなります。拘束時間が短くなれば、それだけ他のコミュニティ、他の世界とも繋がりを持てる可能性が高まります。それは家族、ご近所さん、友達、あるいは趣味仲間といった世界です。他の世界に身を置くこと自体が癒やしですし、また他の環境は自分の身を置いている環境や、自分自身を客観視する「目」になりえます。
まぁ、法律に準じて労働時間の上限を遵守するところであれば、他にあまり悪いことも起きないような気もしますが。
人間の問題として
意味があるとは言っても、時間が本質的な要因ではないことは主張したい。人を死に追いやるのは人間です。長い残業時間は、精神的な暴力を日常的に振るう悪辣な人間が生み出す、一つのわかりやすい結果に過ぎません。そこを取り違えてはいけない。
最後に。もし今現在過酷な環境で疲弊している人がいたら、とにかく自分を責めないでください。心の傷は目に見えませんが、必ず身体や言動になんらかの変調となって表れます。それはシグナルです。心と身体を壊してまでやるべきことなんて何もありません。自分の心と身体を第一に考えてほしいと強く願います。
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