X見てたら例によって燃え広がっていた件について。まぁ炎上ネタなので直接引用するのはやめておきましょう。
さて、今回のお題はこちらです。ドドン。
「ジジイと話すのは苦痛」は差別か否か。
お題もなにもそれはド直球の差別です。ここで抽象化してみる。
- Aと話すのは苦痛
- ここで、A=人種、信条、性別、社会的身分又は門地
念の為、Aは日本国憲法リスペクトです。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/dl-constitution.htm#1sho
権威付けも済んだところで、ジジイこと高齢男性は思い切り「性別」あるいは「社会的身分」あたりにかかるので、これはまぁド直球の差別、としか言えんわけです。
では次の命題。
「ジジイと話すのは若い女にとって苦痛」は差別か否か。
個人的には明らかなんだけど、人によって異なるかもしれません。これも抽象化しましょう。
- Aと話すのはBにとって苦痛
- A, B = 人種、信条、性別、社会的身分又は門地
どうでしょう。A, Bなる存在で見たら差別にしか見えないのではないでしょうか。ではここで、AとBに色々当てはめてみましょう。
- 用もないのに黒人と話すのは白人にとって苦痛だ
- MAGAの白人と話すのは移民の黒人にとって苦痛だ
- 仕事で女性と話すのは男性にとって苦痛だ
- 高齢の男性と話すのは若い女性にとって苦痛だ
- エリートと話すのは気後れするのでニートにとって苦痛だ
- ニートと話すのは疲れるのでエリートにとって苦痛だ
どうでしょうか、少なくとも受ける印象はそれぞれかなり異なるのが本音ではないでしょうか。では印象は置いといて、このうち、どれが差別で、どれが差別ではない、と言えるでしょうか。恐らくここで、態度が分かれます。
- すべて差別である。
- だから言ってはいけない。
- しかし個々人のやりとりにおいては表現の自由なので言って良い。
- すべて差別ではない。
- 一部は差別だが、一部は差別ではない。
まず1について。全部差別だろ、はいわゆるリベラルになるのかなぁと思いますが、その後の結論が真反対にです。前者のだから全部ダメだは現代のリベラリズムで、後者のだが表現の自由だ、は「古典」がつくリベラリズムでしょうか。日本語だと自由主義で通るかもしれませんね。最近だとリバタリアニズムと言われるかも。ここでは一番誤解がなさそうな古典的自由主義といいましょう。
社会の名目としては、1の前者、つまり全部差別だからダメですよ、になるかと思います(なので件の騒動について、ハラスメントとしたのは相手が還暦間近の男性だったからという理由では決してない、としたいはずなんだけれど、SNSではお構いなしに本音砲を味方面した人たちが後ろから撃ちまくるので、陣営は頭抱えてそう)。
しかし、現実的に抵抗がある人は多いのではないでしょうか。なんでもかんでも差別差別というのはあまりにも息苦しい。かといって、個人の意見表明である限りは差別でも良い、表現の自由だ、というのも現代の多くの人にとってはマッチョ過ぎるのでしょう。
かといって、これは差別だけどこれは差別ではない、とするのはダブルスタンダードになってしまいます。リベラルを名乗る人には合理的な理由があればよいというような人もいますが、このような合理的な理由があるから差別ではないのだ、といくら言ってもその合理的な理由なんかいくらでも作れるのです。
そうなると、「これくらいは全部差別とは言えないんじゃないか」という考えも出てきます。しかし、「高齢男性と話すのは若い女性にとって苦痛だ」を差別ではないと言えても、「黒人と話すのは白人にとって苦痛だ」も差別ではない、と現代社会の中で本当に言い切れるでしょうか?これはこれで、やはり非常なタフさが必要です。
結局、多くの人はAとBの組み合わせで、差別か差別でないかの基準を変えてしまうのが現実かと思います。しかしそれは、何をどう言い繕っても、やっぱり論理的にはダブルスタンダードなんですねぇ。
それでも、現実的にそれが一番うまくいくなら、それでいいのかもしれません。所詮人の世の理に過ぎないこと、こうしないといけない、というものはありませんから。ただどうも、昨今の事案を見ていると、あまりうまくいっているとは言い難いような感じがします。
これはまず、AとBの組み合わせから来る差別判定の基準が人によって違いすぎることに原因の端があるでしょう。その乖離が思想信条立場によってどんどん大きくなっています。そのうえで、「差別」と判定されたときのショックが、社会的にあまりにも大きくなりすぎてしまいました。一夜にして築き上げてきたキャリア、社会的地位、収入資産、そして人間関係まで、あらゆるものを失う事態が頻発しています。
ここにきて、AやBに当てはまる属性による有利不利の差が社会的にも看過できないレベルになってきた、ということでしょう。
結局、問題の先送りだったのだと思います。先送れなくなるまで問題を大きくし続けてしまった。件の騒動は現代の歪みがもろに出ている象徴的な事件に思えますので、私には珍しく芸能人の騒動を追っています。
最後に私個人の考え方を述べると、表現の自由を重んじる考えです。自発的な心情を否定しても仕方ないと思います。しかし、それはあまり公にするものではないでしょう。絶対に言ってはいけないとまでは思いませんが、やるなら相当の覚悟が必要でしょうね。
その覚悟がないまま、非対称の関係を進めてきてしまったこと、そしてそれが今なお続いていることに、現代の行き詰まりがあると思います。
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