見た瞬間お腹の中で何かが煮えたぎるような、まさに「腸が煮えくり返る」感覚を味わったのは久しぶりで、それというのもTwitterで1人の被害者の未来より10人の加害者の未来のほうが大事とかいう、わけのわからない言葉が流れてきたからだ。なんのこっちゃと調べてみて驚いた。
被害者より加害者10人の未来…中2女子死亡に学校が|テレ朝news-テレビ朝日のニュースサイト
教頭(手記から):「10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか」
ええぇ……。
最低最悪なロジック
よくもまぁ、ここまで最悪なことが言えたものだと感心する。この理屈がとおるなら、10人集まったら1人を殺めても問題ない、ということになる。世紀末でもこんな修羅にはなるまいよ。ひどいもんだよ。
いったいぜんたい旭川はどうなっているんだと思ったが、この記事によると東京地検の担当検事にも同じことを言われたらしい。
中川翔子「こんなこと許されない」旭川女子中学生死亡めぐり思い吐露(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
ネットで中傷を受けた経験のあるタレント、スマイリーキクチはツイッターで、手記全文を掲載した記事を貼り付け、「『10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。』教頭に言われた言葉です」と、その一文を引用した上で「同じことを東京地検の担当検事に言われた」と告白。
ちょっと何言ってるのかわかんない。
100万人の未来を奪うロジック
前述したとおり、10人の加害者の未来を優先するなら、10人集まったら1人を殺めてよい、ということになる。したがって、このロジックを使ってこれからも似たようなことが起きるだろう。そのたびに誰かの未来が奪われる。つまり、10人の加害者の未来を守るとは、その後生まれるだろう100万人の未来を奪うということである。
それにも関わらずこんなことを言うのは、まさに今現在の、自分の保身しか頭にないからだ、ということは一つ事実だろう。コミュニティの未来なんて想像の外にあるから、簡単な論理破綻にも気づけない。
こういうことは一事が万事、学校だけがおかしいというより、その地域全体がおかしいのだろう、つまり、旭川とはそういう連中に牛耳られてしまった地域なのだな、というのが最初の感想だった。旭川は以前にもエグい事件があったし。
が、東京地検でも同じことを言われたとなると、土地柄という解釈も誤っていることになるのだろうか……。だとしたら、暗澹たる気分だ。
1人に見えて1人ではない
コミュニティは、1人を助けるために100人の犠牲も厭わない。その最たるものが国である。だから、国外で自国民に危険が迫れば、たとえそれ以上の犠牲を伴うかもしれないとしても、決死の救出をするのだし、場合によっては戦争の覚悟だって決める。その1人の先に、100万人の未来がかかっている。
同じ理屈で、コミュニティは誰かを犠牲にすることもある。テロリストの要求に屈しない、などはその例である。
ただ、そういう気分はたしかに今の日本にはないのかもしれない。今この瞬間の、目に見えた命しか考えられない人は相当数いるのだろうか。
命の算数はレトリック
さて、これは共同体の理屈から描いたロジックだが、この論理展開に違和感を感じる人もいるだろうとは思う。というのも、命で加減乗除をしている点については表題の言葉と同じだからだ。命で算数めいたことをすること自体に抵抗を感じる人もいるだろう。
その感覚は間違えていない、と思う。命の価値は不可算であり、計算できないものだ。1人の命と10人の命を比較すること自体がナンセンスだ。それはそう思う。僕もそういう考え方だ。
これについては、表面上の算数はレトリックだということを申し添えておきたい。
先に、1人の被害者の未来より10人の加害者の未来、という雑な算数は、100万人の未来を奪うことだと言った。こういう論理破綻が起きるのは、とどのつまり「今の私の社会的地位が大事です!!」というのが本質にあるからである。そして、他者の未来のことなんて、まったくの想像外。自分勝手な本質を算数的に表現したところ、その欺瞞が明確になってしまった、ということなのだ。
同様に、100万人の未来のため100人の犠牲を厭わないとは、現代人の100人の命は未来人100万人の命より軽いと言っているのではない。これは言語化が難しいが、俺の想いを込めるならば、今この瞬間の自分を犠牲にしてでも、将来の子どもたちを助け、未来を紡いでほしいと、そういう願いがあると思っている。その本質を算数的に表現した結果が、100万人の未来、である。
何が正しいかはわからなくても
結局、その人が本当に価値あるものと信じるところが、言葉に表れているのだと思う。
突き詰めると、何が正しいなんて言えない。「私の社会的地位が大事!!」もその人にとってはきっとそうなんだろう。ただ僕にとってはそうではないし、多くの人にとってもそうではなさそうなのは救いだ。
未来を想う行為は、今この瞬間の自分だけにとどまらない、もっと連綿とした何かがある。それが絶対的に価値のあるものだ、とは言わない。そんなものはこの世に存在しない。
ただ僕は、自分だけの今より未来に想いを馳せたい。
これは綺麗事だし、難しい。だいたい今だって大事だ。今を蔑ろにして未来があるはずもない。ただやはり、今を積み重ねたその先にある未来について、想像することを忘れないようにしたい。そこに自分の存在など消えてなくなっていたとしても。絶対的な意味などないのだとしても。そのように生き、死にたい。
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