結局、独身のまま

会社をやめてから2年以上経過した。事業主と嘯いているが特に事業らしい事業もせず、客観的に見て、僕は自らをキャリアを断った形だ。一応まだ小銭が残っているので当面の暮らしに困っているわけではないのだけれど、正直結婚やら何やら、いろいろな世間的にまともとされることはもう無理なのだろうなと思う。思い返すと、多分僕にも結婚できるチャンスは人生で一度くらいあったのだが、それも自ら棒に振った形だ。

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機会はあった?

しかし、ではその機会をものにしていたら僕はどうなっていたのだろうかと思うと、想像しても詮無いことではあるけれど、それはそれであまり良いことにはなっていなかったかもしれない。よく言われるのは、最高なのは成功した結婚であり、その次に独身があり、最悪なのは失敗した結婚である、という言説だ。これは多分そうなのだろう。

まぁ現実には成功と失敗は明確に言いきれるものではない。また、少なくとも「結婚したことがある」というのは、世間的な印象はプラス・マイナスがあるけれど、総合するとプラスのほうが強いかなという気はする。少なくとも男にとってはそうだ。女だとそうでもないかもしれない。

ただ結婚していた場合、少なくとも組織をやめるようなことは絶対になかったであろう。というかそもそも上京できたかも割と怪しい。つまり僕のキャリアそのものが劇的に今と変わっているはずで、正直どうなっていたかは想像もつかない、というのが正直なところだ。ただまぁ、さすがに嫁がいたらなんかしら普通っぽいところまでにはなんとかしたような気もする。

その先に何があったかはわからない。僕の性格上、結局鬱々としていたかもしれない。特に結婚の後は子供のフェーズがあるわけだが、そこまでたどり着けたかはかなり怪しい。実際友人にも子無しの夫婦はいる。子無しだと、正直メンタリティにおいて独身とあまり変わらないような印象がある。子供があって初めて世間的に言われる家庭と呼ばれるものになるのかもしれない。世帯主としての責任も強くなるのだろう。

現代の気風

まぁもちろん、生き方はそれぞれだし、成熟の仕方もそれぞれだ。これは別に現代リベラル的な建前の擁護ではなくて、そう思う。実際、子供を持って初めて一人前だ、という人も、では安倍晋三は一人前ではなかったのか、と問われれば、そういうことを言っているんじゃないんだけど、というようなきまりの悪い顔をするしかないのではないか。まぁ、もしかすると「そうだ!アベは大人ではない!」という思想の持ち主もいるかもしれないが、そういう人はあまり子供を持って初めて云々みたいな考え方にはなるまい。

つまり、家庭というのは現代においては保守的な概念とされる。それはリベラルな気風をヨシとする現代社会においては少し古びた響きを伴うものだ。一方でそれを否定しきれる者は少ない。

それで、少子化対策のためにわざわざ利権の塊となる象徴を作るときにも、わざわざこども「家庭」庁という言葉を差し込んだようだ。

これは保守層に向けたパフォーマンス以上ではなかったと思われるが、これによって否定論者の分断に一役買ったかもしれない。こども家庭庁を解体せよ、という言説は左右を問わずあるのだが、ここで「家庭」そのものを否定したがる左派の言説に触れると、保守派はムッとなるわけで、両者ともこども家庭庁は不要だ、で一致しているはずなのだが、心情的なところで一緒になれない。一種の分割統治の様相を呈している。

これは少子化の対応についても同様で、少子化が問題だ、までは左右問わず一致するのだが、その原因と対応については真逆に近い感じだ。

いずれにせよ日本では(というより中進国以上では)子供は増えていないし、婚姻も成立しづらくなっている。その中で僕もまた成立しなかった1としてカウントされる流れだ。正直言ってこれは抗えない大きな流れであると思うし、この流れはまだしばらく大きくなるばかりだろう。

大局的には

より大きな流れという観点でいえば、結局のところリソースに対して人間が増えすぎたために、人間の需要が減って、調整されている風に見える。たとえば少子化の原因の一つとして教育コストがあげられるが、この高騰は仕事の高度化よりも、子供にも与えられる仕事がもはやなくなってしまったから、というほうが直接的な原因に思う。

その割に現在は人手不足だという声の合唱が続く。それと同時に、高校無償化に代表されるように、数少ない子どもの教育期間をさらに伸ばそうとして政治家は躍起になっている。これは奇妙なことだが、これは人が余っていた時の名残だろう。人が余っていて、成長していたときには、シグナリングに時間をかける余裕があった。そのようにして高校全入は達成された。

今現在、余裕があるようには見えないのだが、シグナリングという形式だけが残された形だ。しかもそれは終わるどころかさらなる洗練を続けている。残された形式は選別の儀式だけではなく、無駄な規制や手続きなどあらゆるところにある。過度で不要な老人福祉などもその一つだ。

より深刻なことは、成長も形式だけになったことだ。資源というリソースを、食料や住居、さらに娯楽などあらゆる求められるものに変換する効率をあげることは、需要を満たすまではうまく機能するが、需要が満たされたあとは、偽りの需要を作るしかなくなってしまう。その成れの果てが膨大なエネルギーを使ってアテンション・エコノミーといえる。そういう無駄を最高にこなせる人に最高の栄誉が与えられるので、みんなで無駄を目指した。

その結果、実需を満たすためのリソースが枯渇を始める。それでもなお、リソースは無駄のために投入され続ける。人手不足倒産と教育の長期化や、貧困者の肥満化とフードロスの拡大が同時に進行する。

結局、リソースに対して人が増えすぎることで、人間を遊ばせる必要が出てきて、そこに左派的な言説がフィットして広まった。そして今は再び余裕がなくなってきたのだが、一度根付いた価値観はそうポンポン変えられるものでもないので、しばらくはさらに人を減らす方向に続くのだろう。

結局僕はその流れの中にあるのであって、どうにもならないことだと思っている。これを現状の自己正当化だと言われればそれに抗する術はないけれど、そもそも抗する気になれない。抗ってどうする?

とはいえ、別に人生に意味はないと言い切れるほど虚無的にはなっているわけでもない。ただまぁ、もはや僕に残されたものが自由しかないのであれば、それが時代の幻想であったとしても、僕はそれを抱いて死ぬしかないのかもしれないね。

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