ルールは必ず破られるし、意味のない(と思われた)ルールは無視される

小池都知事の強権的な言動が強まる今日この頃、それでも「そもそも言いつけを守らない人がいるからこんなことになるんだ」という人がいるようだ。僕はこれを、無意味どころか、危険な考え方だと思う。

ルールは守られて始めて価値を持つ。守られないルールなど、無価値どころか有害である。ルールが守られない時は、その理由を突き止め、対応しなくてはならない。で、「ルールをもっと厳しくする」は基本的に悪手である。これでうまくいった例を僕は知らない。

進学校の校則は緩い説

一般に、進学校ほど校則が緩い、と言われる。例外はあるものの、経験的に同意する人が多いのではなかろうか。僕の高校もいわゆる進学校と類されるところだったが、自由な気風でたいていのことは許された。しかし、それで生徒たちが暴れるかというとそんなことはなく、「任されている」と認識し、また先生も「任せている」ことを誇らしく思っていたように思う。一方で、荒れた学校の校則はその逆で、校則は厳しい傾向にあるようだ。

この論と同じような感覚で考えると、小池都知事の強権的なやり方についても、「そもそもルールを守らない人がいるから、酒を売るなとか、そういう話になってしまうんだ」という都民の自業自得論を唱える人も出るのかもしれない。

ただ、校則を厳しくしたところで荒れた学校は荒れたままという認識である。つまり、本来の目的であるはずの秩序に対して、特に実効性がない

罰則も本質的に無意味

そうすると、今度は「罰則を厳しくしろ」という話になる。実際、今は「法的に私権を制限できるようにすべきだ」と言う人が多い(なぜか平生はリベラルを自称していた人に特に多い気がする)。個人的にも、私権の制限がどこまで許されるのかという議論はすべきだとは思う。ただ、それは相当に慎重かつ、根拠をもった、十分に合理的なものでなくてはならない、絶対に濫用されるようなものであってはならない、と強く思う。

ただ、罰則を厳しくしたところで、本質的な解決にはならないだろう。罰則があってもなくても、ルールは破られる。ルールを破っても、それを隠せばいいだけだからだ。

と言うと、ルールを破るのは身勝手な人間、と見えるかもしれないが、そうではない。たしかにまぁ、反抗することに快感を覚える人もいるだろうが、それはごく一部の特殊な性癖の人たちであって、1億の人口を抱えた日本社会においては無視できる程度のものだ。

ルールを破る理由

ではなぜルールを破るのかというと、ルールを守ることに意義を見いだせないからだ。当たり前だが、人はルールを守るために生まれてきたわけではない。ルールを守ることで、自分や周囲に利益があり、社会が円滑に運用されると信じられればこそ、ルールを守るのである。ルールを守るとは意思であって、自然現象ではない。我々は意思をもった生物であって、プログラムされた通りに電気をとおすトランジスタではないのだ。

したがって、ルールを守ることで自分にも周囲にも利益がなく、また社会的にもいいことなどない(この「社会の」が重要で、社会的な損失を認めていながら、自己の利益のみ求めている場合は、たしかに自己中心的の誹りを免れまい)、と信じられれば、ルールを破る人が出てくる。彼らは、罰則を受けることさえも覚悟している。

つまり、ルールを破って得られる利益>罰則による損失のとき、ルールを破ることが合理的、となる。そしてここでいう利益・損失とは、金銭的なものに限らない。というより、金銭的なところは些末である。それは社会的な立場、仲間との絆、思い出、信仰、信念など、金では換えられない、まさにその人の人生そのものである。

無敵の人、という言葉があるが、それはあらゆる罰則を恐れない状態まで、すべてを失った人のことだ。すべてを失うと、損失もなにもなく、何をやっても利益のほうが大きいので、まぁ何でもできてしまうわけで、これは社会的に大きな問題、というわけだ(ちなみにこの問題はこれから本当に深刻化していくと思っている)。

結局、都知事の「お願い」を聞かない人が多いのは、そんなお願いを聞くことに意味がない、と思われているからだ。意味があると思っている人にとっては、それは理解し難いことかもしれないし、ただの身勝手としか思えないかもしれない。

が、いくら当人が理解できなくても、現実として「意味がない」と思われていることを認めないことには、実効的な施策にはならない。今現在はまだ、都知事が「お願い」するだけで、社会的に十分な強制力が働いているが(我が国においては、法的根拠の前にまず「法律に則った社会」を実現するほうが先なのかもしれない)、「このままいけば」(みんなこの言葉大好きだよね)、そのバランスも大きく崩れるだろう。いや、もう崩れ始めているのかもね。空気なんて、変わる時は一気に変わるものだよ。

「意味がある」と思われるルールなら(比較的)守られる

じゃ、どうしたらいいのかというと、ルールを守ることに「意味がある」と、できるだけ多くの人が納得できるようにすることだ。ルールを守ることによって得られる自分・周囲の人・社会の利益を説く。まず利益でもって納得させる。が、すべての人を完全に納得させるのは無理だ。しかし、罰則があればリスクをおかす可能性は減るので、必要があれば罰則も考える。僕が私権の制限については議論すべきと考えるのは、この観点だ。

その罰則も、あまり激しいものなら当然反発をまねく。たとえば「酒飲んだやつは拷問して殺す!」とかそんなのはまぁまずとおらないし、とおってもすごい勢いで変えろって話になるだろう(さすがの日本人もこれは変えようとするはず、そう思いたい)。独裁者でもない限り、自分の好き勝手にルールは決められないからね。そして日本は、おらが村の小さな独裁者は生まれやすいかもしれないけれど、天下統一は非常に難しい国だと思う(だいたい天皇陛下のおかげ)。

だから、みんなで真面目に議論すればね、けっこうみんなが納得できる施策ってのはできると思うんだよ。たとえばさ、僕なんかは飲食店への休業要請は本当に無意味で害のほうが大きいからやめろと思っているわけ。でも、同時に飲食の業界は遅れている、未だに現金しか使おうとしないところが多い(PayPayのおかげで変わりつつある)し、ITをちっとも活用しようとしない、とかも思ってたりするわけね。

そこで、「弁当配達のシステム化」を補助をするとか、そういう風なお金の使い方をするならば、「そういう使い方なら、未来のためにもなるか。うーん、まぁ完全には納得できないけれど、まぁいいよ」とか思ったりする。

コロナでよかったことに、リモートワークの推進と脱ハンコ、無意味な飲み会が減ったことがあるけれど、ただなになにをするなっていうんじゃなく、そうではなく方向性を変えよう、そのために支援もするとか、そういうよりよい未来を目指したものならさ、人の移動やらなんやら制限に同意を取り付けることはできるはずだと思うんだ。目指すべき未来は、具体的な姿は違っても、そこまで大きくみんな変わらないんだからさ。

まぁでもね、小池都知事はそんなことどうでもいいんだろうな、と思う。いやね、都知事はどこまで権力を行使できるのか、試しているだけなんじゃないか、自分の人気が失墜しない範囲で、どこまで人民を統制できるのか、実験しているんじゃないか、と。吉村知事は単純に必死なだけなんじゃないかなと思うけれど(その施策は違うと思うけれど)、小池都知事はけっこう本当に危ない人だと思うし、そういう人が権力を握ってしまうものなんだなぁと、暗澹たる気持ちになっている。それは畢竟、僕らのレベルってことかもしれないんだけれど。

結局政治ってのは、権力ゲームなんだなぁ。

いつもの下書き

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