ワクチン騒動の帰結:予防のパラドックスと同調圧力の狭間で

少し前までワクチンを打たずんば人にあらずみたいな空気だったが、最近は逆噴射が起きているようだ。尾身氏の感染防止に関する発言などは一つの象徴かもしれない。

尾身茂氏「感染防止効果は乏しかった」発言に波紋広がる SNSは怒りと疑問の声、世界のワクチン総括との違い - coki (公器)

さて、今になってワクチン推進に懐疑的な勢力が強くなってきたことについて、「感染予防に尽力し成功したばかりに、そんなに酷いものじゃなかったと非難されている」という声がある。これはいわゆる予防のパラドックスで、漫画においても未来の事故を防いだ予知能力者の不遇などけっこう目にする。

しかしながら、今回のワクチン騒動については、予防のパラドックスというよりむしろ、コミュニケーションロスト、厳めしくいえば、言論弾圧の問題のほうが大きかったと個人的には考えている

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ワクチン推進以外の見方は実際的に弾圧されていた

僕が問題だと思うのは、ワクチンが推進されていたという事実ではない。ワクチン推進以外の見方、少しでも懐疑的な見方、個々のリスクとベネフィットを慎重に見極めたいといった合理的な見方まで、すべて反ワクとしてひっくるめて実際的に弾圧されていた、当時の空気にこそ問題があったと思う。

2023年3月の記事になるが、当時の空気感については以下の記事から多少なりとも感じ取れるかもしれない。

この記事では、「ワクチンを打ってないことを人に言えない」同調的な空気や、屋外でマスクをしていないというだけで(厚労省からはマスクをする必要が無いとされていたにもかかわらず)マスク警察から暴力的な絡みを受けた実体験を書いている。

また、僕のワクチン未接種の決断は、統計を見てリスクとベネフィットを考慮したうえでの決断であって、非科学的な陰謀論に染まったからではない。僕自身「2回目までの高齢者の接種には意味があったと考えている」と書いているように、これが正しいかはさておき、自身が入手できる情報から、ゼロイチではないリスク分析のうえで、行動を選択していたことは少なくとも言えるだろう。これは民主主義社会において尊重されるべきことだった。

だがこういった個人の考えは無視され、全員へのワクチン全面的な推進以外の意見は、ワクチン打つと世界と5Gで繋がるおのれDS許すまじ陰謀論者というような扱いをされかねなかったことを、強く記憶している。

結局のところ、権力と同調圧力で弾圧し、押さえ込んでいたから、押さえ込んでいただけ反発し、逆噴射が起きているという認識だ

これは予防のパラドックスというより、言論弾圧の問題と考える。そしてその主体は政府であり、国民であった。権力による制度的弾圧と、市民による社会的弾圧が同時に機能した。

これは覚悟の話だ

大きな問題は弾圧であったという考えを踏まえたうえで、ワクチンの感染予防効果についても考えたい。実際のところ、ワクチンの寄与が定量的にどれくらいなのかは、原理的に知り得ないというのは現実である。その寄与率は、10%なのか50%なのかあるいは90%なのか、それは証明できるものではない。少なくとも100%でなかったことは、尾身氏の発言などからも察せられる。また、それは当時の公的なアナウンスと乖離があると批判を受けている。一方で、0%とも言い難いだろう。

まぁ結局のところ0と1の間にあるというつまらない話ではあるのだが、重要なことは、その効果のほどは現実として不明だということだ。そして、それは始めからわかっていることでもあった。

わからないのだから、様々な立場があって当然だ。そしてわからないことについて、或る立場が、そうでない立場について強権的な振る舞いをしたのであれば、それはいつか跳ね返ってくる。これはそういう話なのだと思う。

僕は、強権的な振る舞い自体を必ずしも悪いとは言わない。それは選択だ。リーダーはもちろん、時には一人一人の市民にも求められることかもしれない。ただ、強権とはリスクのある行動であって、そのリスクを認識し、覚悟してやっていたのか、とは問いたい

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