体育不要論と学校

いつものようにネットをぷらぷらと散策していたところ、体育不要論の議論が目につきました。これは以下の痛ましいニュースを発端にしています。

体育の持久走で倒れる 中1が死亡 - Yahoo!ニュース

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状況

このニュースでは以下のように報じられています。

京丹後市教育委員会によりますと7日午前9時15分ごろ、久美浜中学校1年生の男子生徒が、体育の授業の持久走で1500メートルを走っていたところ、600メートルほどのところで歩き出し、その後倒れ込んだということです。

持久走で600メートルほど走ったら倒れてしまった、というのは異様に思われます。

死因については調査中としていますが、男子生徒に持病はなく、当日朝のホームルームでの体調チェックでは、自ら元気なことを示す「○」をつけていたということです。

朝体調のチェックシートでは○をつけていたとのことですが、今ってそんなことするんだと思いつつ、実際に起きたことを見ると、このチェックシートはどこぞの現場のごとく形骸化していたのではないでしょうか。倒れるまでにまったく兆候がなかったとは信じがたいです。

酷く痛ましいニュースですが、この事件のコメントとして、体育不要論とその反駁という形で、Xやらヤフコメやらで議論になっていました。

体育不要論としては、学校は生徒の個別の事情など勘案しない、無理をさせる、その結果こういった痛ましいことが起きる、そもそも体育は役に立っていない、不要だ、というような感じです。それに対する反駁は、この事件は一般化するには特殊過ぎるし、身体を動かすことを覚える体育は重要だ、というものです。

色々と思うところはありますが、この事件について言えば、持久走の途中で倒れたという事実がある以上、対応の適切さに疑問はあるものの、何か特別なことをさせていたという情報もないので、基本的には個別の事案として考えるのが妥当と思われます。

体育不要論の本質

とはいえ、体育不要論が出る背景自体は理解できるところです。思い返すと、体育で何かを学べた記憶はなく、実態としては公開処刑の場というのが僕の実感でした。

本来的に、体育では一生をかけて自分の身体をつくり、健康を維持増進し、スポーツを通じて仲間を作り、また投擲など基本的な所作を身につけることを期待しますが、実際そのようになっているとは思われません。

たとえば持久走があるから持久力が鍛えられるかというとそんなことはありませんし、また球技のようなチームプレーを求められる競技で、運動音痴はただただ辱めを受けることになります。それに対する教師の指導というものはついぞあった記憶がありません。

ただし、これは体育に限らず副教科全般そういう状態でした。音楽も、美術も、できるものがのびのびとし、できないものは決まり悪そうに時間が過ぎ去るのを待っている、そういう具合でした。音楽は個別の発表や合唱があるので、かなりつらい思いをした人も多いでしょう。まぁ、我々人間の猿としての性質を剥き出しにするのはやはり体育だとは思います。

以上は僕の個人的な経験から来る想いですが、小学校3つ、中学校2つと渡り歩いて、感覚が違ったことはありませんし、またこれだけ怨嗟の声が溢れるのは、それだけ当時恨みを持っていた人が多かったということではないでしょうか。

科目の正当性はあるだろうが

まぁべき論でいえば、身体を動かす科目の正当性は明らかですし、私も体育は不要であると声高に言う気はありません。むしろ体育はあったほうがよいという考えです。今になって筋トレなどしていますが、身体を作るための基礎と習慣を学生時代に身につけていればなぁと悔やまれます。身体作りだけではなく、飛ぶ、掴む、投げる、剛体に力を伝えるといった、基本的な所作の重要性を、今さらながら痛感します。

ただこれは、大人になって学問の大切さがわかったというのと同じようなもので、学生にその課題意識を持たせるのは難しいことです。しかしながら、では教師と呼ばれる人たちがそういう生涯の学びの礎となることを意識していたのか、甚だ疑問であることも事実です。

学校不要論

理想を語るほどに、現実としてそうはならないだろうこともよくわかるので、何を言っても虚しく感じられます。私もここまであれこれと考えてみましたが、考えるほどに不毛だと思いました。

だからといって体育不要論は現実味のない極論です。実際、言っている当人もその実現性を信じてはいないでしょう。であれば、それは議論というより積年の恨みをただ綴っているに等しい。このニュースのコメントとして、体育不要論のような議論をすること自体に忌避感を覚えるようなコメントもありましたが、本質的には恨みの吐露に過ぎない見せかけの議論の種として、学生の死を利用しているように見えるからだと思いました。

しかし実際のところ、建設的な議論をしようにも、現実性のある施策は思い浮かびません。しかしそれでも何か建設的、少なくとも建設的に見える何かをしなくてはならぬと、恐らくはそのようにして生まれたのが、学生が○をつけたチェックシートなのでしょう。

であるならば、とどのつまり学校とは所詮その程度の場でしかない、としか私には言えません。体育不要論ならぬ、学校不要論です。これに比べれば体育不要論など穏当なものです。前言撤回します。体育不要論は穏健派です。

まぁ、実現性がないという点では変わらないのですが。現実は逆で、最近高校無償化が決まったようです。しかし、この学生である期間を延ばすほどよいという考えは恐らく逆で、学校以外の世界をできるだけ早く実感させることが本当は必要なのだと思います。それこそ今を見ていると現実味がないのですが。やっぱり不毛なんですかねぇ。

私としては、どのような環境であれ、個人に選択を促すほかありません。たいていのことは、死ぬよりマシですので……。

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