減点法の問題は減点されることではなく、減点されないこと

岸田政権の支持率が落ちたらしい。

僕は岸田文雄のことはまったく評価していないけれど、しかし何故このタイミングで?なんかあったっけ?と思ったのだが、世間的には統一教会に絡む安倍晋三元首相の国葬について賛否が分かれているそうな。

え、そこ?と思ったけれど、まぁでも多分、そうなんだろう。国葬の是非がどうのという話ではなく、国葬を「決めた」、より明確に言うと「何かを決めた」ということで、支持率は下がったのだと思う。

減点法も加点法もテストでは変わらない

日本人は減点法だと言われる。そしてそれが良くない、だから日本人はみんな苦しいんだ、とも、ちょっと調べれば、いや調べなくても、ネットで記事を眺めていれば目につかない日はないくらいだ(そういう記事こそ減点法的な態度でもある)。

だが、減点法自体は別に問題のある方法ではない。というか、減点法も加点法も原理的には同じである。テストの答案で、バツを数えてもマルを数えても点数は変わらない。テストではね。

現実では減点法と加点法で評価が変わる

でも、現実には減点法と加点法で物事の評価のされ方は大きく変わる。現実とテストは違うんだから当たり前だと思われるかもしれないが、具体的に何が違うというのか。

一番の違いを端的に言えば、「テストの問題を作るのは自分だ」ということに尽きるだろう。テストでは誰かが作った問題を自分が解くのだが、現実の評価は逆で、自分が作った問題を誰かに解かせる形になる。

ここで、評価される側の視点に立って考えよう。評価の対象者の視点では、評価する人が作ったテストで自分が測られる、ということになる。つまり、減点法で評価される一番の方法は、「問題を作らせないこと」だ一問も問題がなければ、減点されようがない

決して、決断などしてはいけない。多くの場合、決断することは決断しないことよりも目立つ。目立ってしまうと、そこに問題があることを嗅ぎ取られてしまう。つまり、評価が下がる可能性が生じる。

白紙回答に気づけない

問題を作らせまいとする者にとって厄介なのは、専門家の存在である。専門家は勝手に問題を作る。しかしその専門家も、自分の専門以外についてはその他大勢と大して変わらない。そして人間誰しも、専門分野よりも専門ではない分野のほうが多い。

こうして、無限のイシューを扱う政治の世界においては、「あらゆる可能性を排除せず慎重に検討する」ことが最適解だと気づき、しかもそれを実行する者が我が国のトップとなった。会議で発言しないことによって評価を下げない我々国民に、相応しいトップといえるかもしれない。

だが、人間が評価しようと評価しまいと、それで現実が変わるわけではない。現実はただそこにある。我々はその現実から、なけなしの知識を使って、何が問題なのかを考える。問題は常にあるのだ。ただ気づいていないだけだ。

これこそが、減点法の本当の問題点といえる。問題に気づけないために、「何もしないという白紙回答」にも気づけない

こうして、問題は先送られる。それはいわば次世代への借金である。先送りした借金は利子で膨らみ、やがて誰の目にも明らかな「大問題」となる。もはや先送りもできない。そうなったら…その時にはもはや手遅れだろうな。その時に向かって我々は一歩ずつ着実に歩みを進め、僕は為す術もなく引きずられている。

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