人はなぜ二度と見返さない花火の写真を、花火を見ずに撮りたがるのか

去年だったように思うんだが、SNSのタイムラインで、花火の写真なんか絶対に見返さないから、スマホを下げてその目に焼き付けて!というようなツイートが回ってきた。それは多分バズツイで、大きな共感を呼んでいたものと思う。リプには承認欲求時代の悲しい性ではないか、みたいな意見もあったと記憶している。

それについて、僕はそのとおりであると思うし、僕自身は花火の写真を撮ろうとは思わない。そうである一方、花火の写真を撮りたい人の心情は理解できるような気がした。僕自身二度と見返さない写真はよく撮る。実際、今まで撮った写真の98%くらい見返してないと思う。

写真が好きな人にとっては本末転倒に思えるかもしれない。写真を撮るという行為は、少なからず現在の体験を毀損する側面がある。それでもなお撮影するのは、それだけの価値があると認められるからのはずだ。見返さない写真にそんな価値があるはずはない。

完全に正しい。見返さない写真に価値はない。とすると、花火の写真を絶対に見返さないにも関わらず撮影するのは、非常に不合理である、のだろうか?

そうとは限らない。それは花火に価値があるという前提に基づいている。当たり前だと思うかもしれないが、果たしてそうだろうか。多くの人は、本当に花火そのものに価値があると思っているだろうか。実は花火ではなく、花火を見に行ったということそのものに価値を感じている、という人は存外多いのではないか。そうであるならば、スマホを下げて花火の散る様を目に焼き付けたところで、大した感動はないのだろうと思う。

そういう人にとって、花火の写真を撮る、という行為そのものに花火大会を満喫するプロセスとしての価値が発生している。たとえ二度と見返さなくても、撮影するという行為自体に価値がある。その明確なアクションが、花火に参加していると確認させてくれるのかもしれない。

花火なんか綺麗だと思わないのに、花火大会に行く事情は、人それぞれであろう。ただ僕は、大していいと思わないものを見に行きたいと思うのであれば、その心情について、僕は少し羨ましく思う。僕は自分が良いと思うから見に行くことしか、できない人間なので。

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