COVID-19がPandemicであるとWHOに認定され、我らがUSAでは国家非常事態宣言まで出た昨今、日本はなんだかんだで平和で今日も僕らは満員電車に揺られて出社している。
しかし仕事においては取引先が出社禁止になったとかイベントが取りやめになったとか喧しく、日常でもやけに取りやすくなった飲食店の予約や中止するライブイベントなど見るにつけ、なるほど今は有事なのだな、と呑気で阿呆の僕でも理解した。
コロナに関連して、日本社会では多くの問題が噴出している。有事になると、社会の抱える問題が際立つ。いずれも考え始めるとそれだけで日が暮れそうな問題ばかりだが、個人的に陰鬱な気持ちにさせられたのはトイレットペーパーの買い占め問題である。
トイレットペーパー狂騒曲
トイレットペーパーがなくなる、というデマが流れ始めたのは2月の末ごろだっただろうか。といっても、僕自身は実はそのデマを直接見かけたことはない。また、トイレットペーパーは数ヶ月に一度Amazonで注文するだけであり、ちょうど先月あたりに補充していたから、トイレットペーパーを注文しようとして在庫切れに気づく、ということもなかった。
最初にトイレットペーパーの買い占め騒動に気づいたのは、TwitterのTLである(たいていの社会現象について僕はTwitterで気づく)。トイレットペーパーの買い占めが起きている、どうやらコロナでトイレットペーパーがなくなるというデマが流れているようだ、というTweetがいくつも流れていた。で、調べてみると実際トイレットペーパーがAmazonでは在庫切れ、でなければ法外な値段がつけられているのを見たわけだ。
デマの発端
いつものことながら、こういうデマの発信源はどこなんだろうと不思議に思う。エセ科学にせよエセ医療にせよ、騙されないで!というTweetが流れてくることはあっても、直接エセ科学やエセ医療情報が流れてくることはない。
僕はテレビを見ない(持っていない)し、またマトモではない人をFollowしないので、そういう生活をしていれば、少なくともデマや怪しげな情報とは無縁でいられる。でもそういう人は少数派で、多くの人はテレビを見るし、面白半分で適当なことを感情的に呟く時代のプチ寵児たちをよろこんでFollowするらしい。
恐らく「騙しにかかっている」Tweetが僕のもとに届かないように、「騙されないで!」というTweetは騙されている人たちに届いていないだろう。SNSってなんだろうなと思うこともしばしばだ。クラスターの中で反響させることは比較的用意でも、クラスターを飛び越えてTweetを広めるのは、一筋縄ではいかないようだ。
したがって、今回も「トイレットペーパーがなくなるのはデマ。買い占めるやつは阿呆。そもそも買い占め自体倫理的にダメ」というようなTweetで僕のTLは溢れていたわけだが、他方「トイレットペーパーなくなるんだって😱😱😱早く買わなきゃ💦」というようなTweetでTLが溢れていた人もいたのかもしれない。
こういった事象はEcho Chamberと呼ばれ、長らくNews mediaにおける問題として指摘されきた。日本ではSNSの文脈で語られることが多いかもしれない。
SNSの問題として見たとき、Follow & Follower制度を基礎とするSNSの本質に関わる問題なだけに、解決は難しい。実際トイレットペーパーの買い煽りをしつこくしてくるアカウントがあったら多分僕はミュートするし、逆に買い煽りを諌めるTweetなどをミュートする人もいるだろう。人は自分が聞きたいことしか聞かない。
個人主義過ぎる合理主義者
兎にも角にも、トイレットペーパーのデマは一部界隈で広まり、実際に行動に移した人も多くいたわけだ。その中には転売ヤーと呼ばれる資本主義の悪しき具現者もいた一方で、普段は善良(だが阿呆)な小市民も多くいただろう。
デマを流すやつも転売ヤーも、正しい情報を懸命に伝えようとする人たちの言葉に耳を貸さない阿呆にも、僕はいまさら何も言う気はない。どうせ言っても届かない。自分勝手な人生を自分勝手に全うしたらいいと思う。
そして、実際にトイレットペーパーは入手困難になり、デマは嘘から出た真となった。そうすると、デマだとわかっていた人の中でも不安に駆られて踊らされていることを自覚しながら買い溜めに走る人が出てきた。
今回の件で僕がもっとも憂鬱にさせられたのは、この「デマだと知りながらも不安に負けて買い溜めを始めた人たち」である。
もちろん、今必要な人が必要な分だけ買おうとしていることはなんの問題もない。今現在進行系で人間の尊厳が試されつつあり、「インド式」で検索をかけている人はありとあらゆる手段を講じてトイレットペーパーを入手してほしい。頑張ってください。
だが「デマでも現実に入手困難になれば困るのは自分」という考えから買いに走る人には、色々と考えさせられた。彼らは一見合理主義者であり、いや間違いなく合理主義者であり、同時に個人主義者でもある。間違えたことをしているとは言わない。だが少なくとも良いこともしていない。
彼らの行動は社会のシステム全体から見ると、個人が自身の利益という観点で最適化していると言える。確かに法律に違反してはいないし、倫理的に外れているかというと、そんなこともないとは思う。
社会的な利益を求めることが個人の利益にもなる
だが、個人的な合理性だけではなく、社会的な合理性という面を考慮してもよいのではなかろうか。「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る」、とは情緒的に過ぎる言い回しかもしれないが、全体で見れば合理的である。社会的な利益は、結局個人の利益にも繋がる。
社会的な利益は個人的な利益よりも意味合いが広いことも重要だ。たとえばブログ記事一つとっても、技術情報を共有したところで個人的な利益はないが、社会的な利益はあると考えられる。事業で失敗して個人的に損失を抱えても、社会的には意義があったと考えられるかもしれない。マラソンでデッドヒートの挙げ句2位になれば、個人的には敗北かもしれないが、デッドヒートによって1位のタイムを上げているかもしれず、それはマラソンという競技そのものに貢献したと言える。
つまり、個人的な失敗が社会的には成功の礎になっていることも多々あるということだ。社会的な利益を自身の価値観の中に取り込めば、成功の定義は純粋な個人主義よりもよほど広くなる。しかもそれは、利他的な態度として現れるので、多くの場合人間的な魅力にも繋がるだろう。
実際、転売なんていう社会的利益ゼロってかマイナスのことをしていると、失敗したときに何も残らない。だがまっとうな商売をしていれば、たとえ個人的に失敗の憂き目を見ても、社会的になんらかの貢献ができたと思えれば、救いがあろうというものだ。また、世の中の誰かは必ずそれを評価してくれる。
まぁだからといって個人的な利益をあまり蔑ろにしても生活がたちいかなくなるので困りものだが、集団主義的な態度も適度に取り入れることが、自分の人生という観点では大切な面があると思うし、失敗したときの保険にもなると思う。
まぁ実際のところどうやっても悪人はいて、正直者が馬鹿を見るということも世の中には往々としてあるし、人間そんなに綺麗じゃないことも事実なので、「絆」とか言い始められても気持ち悪いしそれはそれで集団主義(空気主義?)に傾倒し過ぎているとも思うが。
個人主義と集団主義のバランス
個人主義と集団主義のバランスは難しく、抽象的ながら言葉にするならば、社会との繋がりを意識した緩い個人主義、くらいを目指すと一番やりやすいと思うのだが、まぁ実際のところ人の考え方は多種多様で強制できるものではない。現実として問題なのは、様々な考えが交差する中で社会としてどうシステムを構築するか、ではあろう。政府がマスクの高額転売を緊急措置で違法化したのはその一環というわけだ。
まぁそういった個々の施策自体は個人的にはどうでもよいことで、結局僕は僕自身どうありたいかを考えているだけだ(でもこのトイレットペーパーの件は、実はちょっとけっこうしっかり怒りを感じている…いや、ペーパーはあるよ?)。別に僕は聖人ではないが、取り立てて悪人でもない普通の人である(そう思っている)。他人様にお説教できるほどご立派でもない。この記事も、様々な行動を見て思ったことを僕自身のために書き連ねただけだ。
僕は個人主義者で、独身貴族だから金がないわけでもないのだが、まぁこのご時世、いざとなれば手でケツを拭くくらいの覚悟はあってもよいと思っている。いや拭かんけどな。
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