撃たれる覚悟に関わらず、撃たれると思ったら人は撃つ

撃たれる覚悟は撃った後にすればヨシ!

などと意味不明な供述をしており……。

さて、のっけから物騒な話になってしまったが、下記記事を見て思ったことによる。

若い男性や共和党支持者では「銃乱射事件への恐怖」が銃規制に反対する原動力になっている可能性 - GIGAZINE

この記事は色々と書いているが、「銃乱射に対する恐怖感情が、銃規制ではなく自らに銃を取らせる傾向」に向かうパターンの観測を示唆している、というものだ。

これについて、直感と反すると感じる人もいるだろうが、そりゃそうだろうな、と感じる人もいるだろう。10年前の僕は前者だっただろうし、今の僕は後者である。そして、これは日本でも他人事ではないなと思った。

目次

撃たなきゃいけないと思ったことはあるか?

銃規制ほど、僕の考えが大きく変わったものはない。

銃規制について考える時、恐らく多くの日本人は、自分を「撃たれる側」として想像するのではなかろうか。少なくとも僕はそうであった。

しかし、今はこう感じる。

俺は撃たなきゃいけないかもしれない

それは正当防衛のためだろうか?あるいはそのように理屈付けできるかもしれない。だがそんな言葉よりも、何かもっと切迫した危機への応答、という風に感じられる。それはべき論ではないし、覚悟の問題でもない。ただ、そうしなければいけない。俺がそれをしないといけない。これは生存の問題だ。そういう感覚である。

僕はこの感覚について、わかる人はわかるし、わからない人はわからない、としか言うことができない。恐らく10年前の僕にこの感覚はわからなかったと思う。ただ10年前の僕でも、今の僕を見て別にキチガイだとは思わないだろうし、戦闘的にも全然見えないだろう。実際僕はひょろいしまったく戦闘的ではない。僕はなぁなぁを愛する。

恐らくアメリカには僕よりもっと切迫した感情を持つ人たちが多くいるのだろう。そしてそういう人たちは、政治的には保守派になるかもしれない。僕は日本においては典型的な無党派層ではあるが、アメリカにいたならば、共和党と民主党のどちらかと言われれば、共和党に入れるだろうね。

アメリカの調査において、銃乱射と銃規制の関連性についてはそう単純に断じることはできないだろうが、少なくとも銃乱射に対する恐怖がある人は銃規制に賛成する、というのはそれこそ単純すぎる見方だった、とは言えるだろう。

誰かを殺したいから規制に反対するのではない。自分の意思とは関係なく、俺がやらなきゃいけないかもしれない、という切迫した危機感が、人に武器を取らせるのだと思う

クマーーーー

さて、翻って日本であるが、日本の場合は銃規制については完全に合意がとれており、というか銃どころか弓一本持てないのが現状だ(参考「クロスボウの所持が禁止されます!|警察庁Webサイト」)。したがって、当たり前だが現実の僕は何も持っていない。せいぜい包丁があるくらいだが、多分ウチのオカンのほうが手練れだと思う。これは僕に限らず皆そうであろう(法令を遵守している限り……してるよね?)。

しかし日本で殺人事件が起きないわけではない。通り魔による滅多刺しはもちろん、学校に押し入って刃物を振り回した無差別殺人事件は多くの人の記憶に残っている。そもそもクロスボウの所持が禁止されたのも、そういう事件があったからだ。そしていかに規制したところで、本当にやる奴は自分で武器を作る。白昼堂々と元首相がお手製のハンドガンで射殺されたのは記憶に新しい。

それでも今のところは、銃刀法の規制を緩和しろ、という声があるわけではない(少なくとも僕は観察していない)。しかしそれでも僕が、記事のアメリカの銃規制と本質的に同様の声が、日本国内でも現在察知されるようになってきた、と感じている。

何かと言うと、クマの件である。

冬を前に、各地でクマの被害が相次いでいる。これの原因については色々と言われているのだが、それはここでは置いといて、問題なのは、クマに対して国家が何もできない、という現実である。

警察は撃たない。法的に撃てないのだとかなんとか色々な意見はあるが、とにかく結果撃たない。で、しまいに秋田の知事は、自分ところの県警ではなく東京に行って自衛隊を呼んでくれと泣きつく事態に(「クマ被害相次ぐ異常事態 秋田県の鈴木知事、自衛隊派遣の検討を28日に国に要望へ 駆除などの後方支援を|FNNプライムオンライン」)。

しかし自衛隊も撃たない。これも撃たないというか撃てないのだとか色々言われているが、とにかく結果撃たない。国民から武器を取り上げて、国家が暴力を独占するのは、国家が然るべき時にその力を行使するため、というのが一般的な見解のはずだが、どうも今はその時ではないらしい。

しかし、それではいつなのか?とりあえず、クマの行動範囲は広がり、政令指令都市の教育施設にも出没するようになった(「仙台高専で子グマ目撃 体育館近くに…臨時休校 今週末まで登校禁止でオンライン授業へ〈宮城〉(仙台放送) - Yahoo!ニュース」)。それでも銃は、抜けません。

ということで、SNSを見ていると、これは本当に肌感覚レベルなのだけれど、「国家が暴力を独占する正当性」について疑義を呈するものが、いくらか散見されるように見えた。それは専門的な言葉を使ったモノもあれば、もっとストレートに「なんのための警察だ」というものもある。実際、バズっていた下記ツイートはまさにそういう話なのだね。

https://x.com/VPrepper/status/1982075504825188489

お巡りさんの拳銃が熊に通用するかなんてどうでもよくて、市民の武装権を認めない以上は刺股でも素手でも良いから仕事をしろって話で、それが怖くてできないならバッジなんて付けるべきじゃない

https://x.com/VPrepper/status/1982075504825188489

ここまで強く言語化されると確かにギョッとするけれど、問題提起としては非常によくわかるというか、正直これは完全に正論だと感心した。ってかこの内容で万バズしているんだからすげぇわ。

実際、ここまで強烈にいかずとも「なんで警察は何もできないんだ」と感じている人は多いし、自衛隊の出動に関しても、「なんでクマに自衛隊なんだ」という意見は本当によく見る。社会契約的な観点で語るまでもなく、それはやっぱり、純粋におかしいんだよ。

ある日町の中クマさんに出会ったら?

さて、それで最初の話に戻る。ある日町の中、クマさんに出会った。クマさんはこちらに突進してきた。なぜか手元に銃がある。

その場合、撃たれる覚悟とか思う間もなく、とりあえず撃つんじゃない?

これは非常に極端な仮定なので、この仮定自体に意味があるわけではない。ただそういう、切迫した危機感というものが、一部にはあるのだし、そして多分それはこれから、広がっていくのだと思う。そういう時代になりつつある。

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