クリスマスというリトマス試験紙

[最終更新] 2016年11月16日

特別な年中行事

3年ぶりの日本のクリスマスです。あまり実感がわいていませんでしたが、イルミネーションに飾られた街角など見ると、ああそういえばと思いますね。久しぶりの感覚です。

とはいえ、私にとっては別に嬉しいこともない日です。そもそも、あまりクリスマスにクリスマスらしいことをしたという記憶がありません。強いていうなら、浮かれるカップルを尻目に、無表情で街道を歩いた記憶があります。悲しい。

クリスマスに予定があるかは、現代日本においてその人がどれだけ社会的な繋がりを端的に表すわかりやすいリトマス試験紙のような役割があるのでしょう。数ある年中行事の中でもここまで人の感情の明暗をわけるものはありません。私などは平生からあまりそういったことを気にするタチではないと自認していますが、それでもクリスマスばかりは「そうか、クリスマスか」と思わずにはいられません。まるで自身の社会的価値を白日の下に晒されるような錯覚を覚える日です。今年は平日どまんなかですから、私も含め多くの人は仕事があると思いますが、それでほっとした人も案外多いのではないでしょうか。

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反応できるだけ良いのだ

まぁクリスマスが必ずしも皆がハッピーというわけではない年中行事であることは、公のメディアでは語られずとも、家族友人同僚との日常会話、サブカルチャー寄りの媒体などで大いに感じられるところです。そして人によってはハッピーに、人によっては怨嗟をその身に宿すことになる…というのは極端ではありますけれど、まぁ何かしら思うところはあるわけです。

ハッピー組とアンハッピー組の二種類に大別できそうなクリスマスですが、もう一つ忘れてはいけない一大勢力があります。それは無感情組です。本当に、まったく、何も、誇張なく、感じるところがなく、というかクリスマスということ自体言われて初めて思い出すような、それくらいの無関心さ。ひょっとすると、アンハッピーな人にはこれを極致として目指す人もいるかもしれませんね。しかし、無関心というのは目指してなれるものでもありません。

期せずして無関心さを得られたことがあります。わけあって去年、一昨年とクリスマスを楽しめるようなところにはいなかったのですが、この時は、本当に、全然、まったく、マジで、クリスマスを忘れていました。いや、もちろん話題にのぼることもあったし、国内からそんな連絡もあるのですが、なるほどその時はそういえばと思い出しますけれど、すぐに頭から離れてしまうといいますか、ニュースで今日の日経株価平均を聞いたくらいの感覚でした。こんなにもどうでもよくなるんだなと自分で自分に感心したくらいです。

要は、日本社会と切り離されれば、キリスト教徒でもなし、クリスマスなんてどうでもよくなります。そして、私はそれが一番怖い状態じゃなかろうかとも思うのです。超俗的な人間になりたいならともかく、距離感はあれど社会と関わりその中で自分の位置を認識することは、今を生きる人間として意味のあることだと思います。また、それができることは健全に社会生活を過ごせている証でもあります(年中行事に疎くなる、は忙殺され人間性を失いつつある人間によくある徴候ではないでしょうか……少し、身に覚えがあります)。その意味で、日本のクリスマスはちょうどいい試験紙です。たとえ負の感情であったとしても、せめて色くらいは出してもよいのではないかと思います。

…といって無理に頑張ることもないのですけれど、まぁこうしてクリスマスに関するブログ記事を書いて見つめなおすだけでもよいかな、と勝手に思っています。何かをしようとする気持ちだけでも十分かな、と。気がついたら正月だった、ではなんぼなんでも悲しい。そういえば、昔クリスマスキャロルを翻訳した人が後書きで「毎年クリスマスにはクリスマスキャロルを読んでいる」と書いていた記憶がありますが、まぁそんな程度のことでも良さそうです。私の場合だと、読む本が森見登美彦の太陽の塔になってしまいそうですが。


ところで全然関係ありませんけれど、最近購入したHPのChromebook G3で記事を書いていますが、色調がちょっとよろしくないですね。ディスプレイはやはりコストの下げどころということなんでしょうが、動画や絵の閲覧を主に考えている人には要注意かもしれません。

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