置き配は避けてなるべく対面で受け取っている

初めて置き配スペースのあるマンションに越した時、僕は感動していた。

それまで、家に不在のことが多かったからだ。15年前、田舎にいた時など、あまり不在だったので、ヤマト・佐川・郵便局の全員に顔を覚えられていた。配達時間指定のシステムも完備されていない時で、再配達をさせてしまうことも多く、たまに在宅だったとき郵便局の人に「ああ、いた!いてくれてありがとうございます!」と言われた時は、若き日の僕もさすがに反省した

申し訳ないのでコンビニ受取などもやっていたが、まだ知名度もなかった当時、田舎のコンビニではイベントであったらしく、慌てた店員さんに「どうやるんですか?」と言われたことがある知らんて。これはこれで少し申し訳なかった。また、毎回指定するのも煩わしく、やはりメインは自宅配達で、配達時間指定も当時なかなか難しく、どうしても再配達に頼ることが多かった。

しまいに職場の荷物と一緒に届けられたり(職場を抑えられている笑)、「玄関前に置いておいていいですか……」と誰よりも先駆けて置き配システムが開発されたりしていた。当時あの土地は平和だった……。エホバとNHKくらいしかこない土地だった。

そういう感じだったから、上京して置き配スペースが公式に存在するマンションに住んだ時は、その便利さに感動したものだった。宅配の兄ちゃんよ、これでもう再配達させずに済む、これまですまんかったな……。と思ったがけっこう置き配がいっぱいになることも多く、なんだかんだで再配達させてしまうこともちょこちょことあったが、しかし再配達は格段に減った。

時は経ち、今のマンションは置き配スペースがないのだけれど、コロナとか独立とかいろんなものを経て、今は在宅での仕事がメインとなっている。なので、置き配を使う必要もなくなった。

しかし、それでも置き配は使うことはもちろんできる。マンション内の玄関前に置いといてもらう、というやり方だ。これを指定すると、Amazonなんかは他の客に入れてもらった後、一緒に荷物を置いていくこともある。出前館とかは、配達員さんと顔を合わせることもなくなる。

コミュニケーションがまったく不要になるので、けっこう気楽だ。実際、以前の僕はたとえ家にいることがわかっている時でも、置き配を指定することが多かった。僕はコミュ症。

今それをしない。積極的に対面での受取を選択している。Amazonがデフォルトで置き配を勝手に指定し、政府が置き配推進などと余計なお節介を焼きはじめた段になって「なるべく顔を合わせよう」というのだから、僕というのはつくづく世間の潮流の逆を行くことになるらしい。

別に反骨でやっているわけではない。単に、互いに顔を合わせるのは非常に大事なことなんじゃないのか、と思うに至ったからだ。

実利的には、置き配はなにかとトラブルの温床だから、というのは確かにある。大した手間でもないのに、それを惜しんでより面倒臭いトラブルに巻き込まれるのはごめんだ。

しかしそれよりも、お互い顔を合わせたほうがいいんじゃないのか、という気持ちのほうが強い。それは僕にとってもそうだし、配達員さんにとってもそうだと思う。僕は、ああこの人が届けてくれたんだな、と思うし、配達員さんは、この人に届けたのか、と思うだろう。現場レベルのこの人かという意識は非常に大事なことで、それがなくなった時、僕らはシステムになってしまうのだと思う。

逆に言うと、昔の僕がそのように考えなかったのは、自分自身をあえてシステムに組み込むような意識があったのかもしれない。だって効率的でしょう。別にそれが悪いとは言わないし、そういう考えもあったほうがいいんだろうと思う。実際、配達員さんにとっても楽なんじゃないかな、多分。

しかし、効率は常に何かを省いているそこで省かれた数字にならないものについて、思いを馳せるようになったのだと思う。実際、夏場の暑い日に空調服の爆音を鳴らしながら届けてくれた日焼けした顔を見たり、雨の日の濡れた服など見たりすると、自然と頭が下がる。そして頭の下がる僕を発見する。

なんだか最近は、便利さに感動することはそうない代わりに、不便の中にあったものに感動することがある。歳を取ったからかもしれんね。

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