AED論争:男か女か、それが問題らしい

本記事は、XなどSNSでホットでファイアーなトピックであるAED論争について、パタパタと内輪で仰ぎつつ論点を整理し、自分の立ち位置を見つめるための一つの見方を提示するものです。

AED論争とは、男性が女性にAEDを使うことはリスクがある(なので、使わないほうがよい、などの立場表明)という、初めて聞くとギョッとするものだが、まぁなんか割と本当に最近の炎上トレンドである。AEDとか胸部圧迫とか救命系のトレンドが上がっていたらだいたいこの話題だと思ってよい。

僕自身はギョッとした口で、救命しないという選択肢が存在することに驚きつつ、しかし現に論争になっている以上、まぁなんかあるのだろうと思ってSNSを眺めている。

目次

3つの立場

SNSを見ていると、ざっくりと3つの立ち位置があるように思える。ここでは以下のように分ける。

  1. リスク派
  2. 配慮派
  3. 助けろ派

1つずつ見ていく。

リスク派:他人の命より自分のリスク

まずリスク派についてだ。恐らくAED論争の発火点かと思う。男性が女性にAEDを使うことにはリスクがあるというもので、そのリスクの根拠はAEDや胸部圧迫に伴う「性的部位に触れる」「服をはだける」ことで、救助後に女性から訴訟されるのではないか、という疑念である。

これはあくまで疑念で、少なくともそのような事例が実際にあったことは聞かない。「女性へのAED使用巡るABEMA番組 テレビ朝日が「再取材」公表:朝日新聞」では被害届を出されたという話がAbemaでされて話題を呼んだが、その後事実関係を確認できていないとされた。

テレビ朝日制作の配信番組「ABEMA Prime」で紹介された「AEDで助けた女性から被害届が出された」というSNS投稿をめぐり、テレ朝の篠塚浩社長は25日の定例会見で、「事実関係の確認が不十分だった」として「再取材を進めている」と明らかにした。

つまり、現状AEDで訴えられた人は確認できていない。

しかし、直接的な事例はないものの、「「私は介抱しただけ」深夜の駐車場で、体調不良の10代女性の体を触ろうと…会社員(56)逮捕 報道を見て自分のことだと思い出頭 札幌市北区|HBC北海道放送」のような事案をもって、男性が女性を助けることにはリスクがあるのだ、という主張がよく見受けられる(この事案について詳細は不明で、客観的にはなんとも言えないといったところだと思うが、行政からの情報が少ないこともあり、行政に対する不信はまぁあると言えるだろう)。

そのようなリスクがある一方で、見て見ぬフリを決め込んでも特に制裁を受けることはないので、合理的に考えると、男性は女性を助けないほうがよい、という理屈である。あえてにべもない言い方をするならば、知らない他人の命より自分の立場、ということになるだろう。

女性に配慮した方法があるよ派:救命より配慮

リスク派と主にバチバチしているのが、女性に配慮した方法なら大丈夫、という配慮派である。

これは服を脱がさずにAEDをする方法とか、近くにいる女性に声をかけてとか、女性を脱がせるときは人壁を作って……といったような方法を啓蒙している。これは女性の権利・尊厳と、救命の意義両方を求めた立場と言える。

しかしながら、非常時に一般市民がそのような複雑な行動を取れるのか、取れたとしても救命の遅れに繋がるのではないか、またそもそも都合良く人が揃っているのかなど、現実的な観点から多くの疑義がある

なにより、配慮を訴えることで逆説的に配慮の必要性が暗に受け取られるため、配慮は本質的にリスク派のリスクを否定していない、どころか潜在的な社会的リスクを裏付けてさえいる。むしろリスク派を増やしているだろう。実際、少数ではあるが、「女性だけれども尊厳がとか言われるなら女性は助けたくない」という人もチラホラ見受けられた。

配慮を命の上に置き、リスクを暗に前提としている点で、リスク派と本質的に表裏一体、同根であり、配慮派は裏リスク派と言ってもよい

いいからさっさと助けろ派:何よりもまず命

一方で、いいからさっさと助けろ、という理屈もあり……というかもはやこれは説明不要に思えるが、一応触れておくと、心肺停止は言うまでもなく文字通り一刻を争う非常事態である。命が助かるかどうかの瀬戸際であり、また助かったとしても、蘇生が遅れるほどに後遺症のリスクもある。したがって、その場にいる人ができる限りのことをするのは、市民の責務だし、というか人として当たり前の行動だ。

この立場からすれば、助けようとしないリスク派は言語道断にせよ、配慮派に対しても、「救命のハードルを上げている」と非常に批判的だ。

実質は命vs命以外の何か

以上のように、3つの立場に分けたが、実は実質的には2つの観点である。リスク派と配慮派はコインの裏表であって、どちらも命よりも優先する何かがある、という点では変わらないからだ。そして助けろ派だけが、そもそもそのようなリスクについてあれこれ考えること自体が間違いで、目の前で人がぶっ倒れたら助けるのが当たり前だし、それだけを考えるべきだと、命に重きを置いている。

そして、現実的に考えて、市民のほとんどは「いいからさっさと助けろ」でしかないだろう。そんなの推測じゃないかと言われればまぁそうなんだが、しかし人命救助について訴訟リスクを考えて行動しないような人が多数の社会は、何をどうしても回らないのではなかろうか。SNSで「私は女性を助けません」と言っている人だって、本当に目の前で女性がぶっ倒れたら助けようとするのではなかろうか。目の前で心肺停止しているように見える人がいるという現実の前で、ジェンダー観念にとらわれた訴訟リスクなど、本当に考えるだろうか。また、本当に、もし本当に、被害届を出したり訴えたりする人がいたとして、社会はその訴えを理解するだろうか。

……と僕は思うのだけれど、とりあえずの現実としては、今日もSNSでは元気に罵り合っている。だいたい下図のような感じだ。

graph TD subgraph リスクあり risk(リスク派) hairyo(配慮派) risk --->|助けねぇぞ| hairyo hairyo --->|配慮覚えろ猿| risk end subgraph リスクなし命最優先 help(助けろ派) end help --->|リスクねぇから| risk help --->|ハードルあげんな| hairyo

うーんヘルジャパン。

結局のところ、リスク派と配慮派は相反するようだが実は同根で、人の命に対する倫理観・現実感を欠いている。

何が起きているのか:現実感のないディベート

この状況には中々ウンザリした気分にさせられている。たいていの人は横目で見ていると思われ、僕もあまりツイートで直接的に言及はしない。

そもそもこの事態において、AEDのリスクは表層に出てきた問題っぽい何かであり、少なくとも本質ではない。したがって、「制度はそのようになっていない」とか「そのようなリスクは極めて低い」とか、そういうリスクはないという真正面からのロジックは意味をなさない。むしろ正論を突きつけるほどに、断絶は深まるだろう。

では、本質はなんだろうか。フェミニズムへの意趣返し、という見方はまず可能だし、よく言われてるところだ。これは間違いなくある。特にリスク派vs配慮派はほぼアンフェ(アンチ・フェミニズム)vsフェミと一致したマウント合戦になっていることが少なくない。が、それもまだ表面に思える。

それ以上に、もっと根本的に、余裕がない。余裕の無さが、理屈を超えた排他的な主張を生み出している。

その一方で、現実的な強い危機感もまた無い。結局のところ、非常事態とは非日常であって、自分や周囲の話ではない。「このままだと本当に生きていけないかも」というようなヒリヒリした切迫した想いも感じたことがない。したがって、AED論争とは究極ディベートであって現実の話ではない。だから助けないと言えるし、正しい助け方をすればいいと言える。正しくできないなら助けなくていいなどと言いさえする。人の、自分の、命の話ではないから。そのような実感のなさ。

生も死も希薄になっていく中で、ただただどうしようもなく息苦しく、端のほうから、押し潰されているかのように、少しずつ悲鳴が上がっている。まぁ、印象といえばそうなんだけれど、どうも、そんな感じで受け取っている。

このAED論争、男女論争の極致にも見えるが、それさえ恐らくは上っ面であり、もっと根深いところで時間をかけて社会が病み始めているような兆候に思え、しかもそれが改善する未来も思い浮かばず、なんだか気分が暗くなるのである。

この記事をいいなと思っていただけた方、よければ高評価・チャンネル登録……はないので、コメント・SNSでシェア・ブックマーク、RSSフィード登録を、よろしくお願い致します。

コメント

コメントする

目次