人文社会学の風当たりとアカデミックの行方

昨今人文社会学の風当たりが強くなっている。これはまず、第一義的には社会の余裕がなくなったので、余剰から削られていっている流れと思っている。

余剰と言うと反発はあるかもしれないんだが、しかしどう考えても水道整備や食糧生産と比べた時に余剰であるのは単に事実だろう。僕とてソフトウェアに携わっているが、ソフトウェアも虚業から実業まで幅広いものの、余剰寄りだなという認識はあるので、今後どうなるものかとヒヤヒヤしている。

また、余剰といってもグラデーションがある。ゲームのようなエンターテイメントはゴリゴリの余剰と言っていいだろうけれど、ちょっと美味しい食べ物は、効率が悪いから贅沢で余剰か、というと意見が分かれそうだ。フォアグラは余剰に思えるけれど和牛はどうだろう。人によるだろうな。そもそも余剰だからといってなくしていいものか。

こういうことは学問にもあるわけで、実生活に役立つ工学や医学であれば比較的多くの人が必要性を認めるだろうけれど、それが基礎物理学となると人によるだろうし、数学など学生時代の怨嗟も相まって何の役に立つの?と直球の疑問を投げられることも多い。

役に立つとか立たないとかではない、は学問的には正当かもしれないが、しかしコストを負っている社会からすれば、本当に何の役にも立たないなら何故そんなそこに貴重なリソースを割かなければならないのか?となる。社会全体から余裕がなくなるほどにその圧力が高まるのは、ごく自然なことだ。

だからアカデミックの世界においても、我々は役に立つ存在ですよとアピールするのは必然というか、社会の構成員としての責任かもしれない。また社会の側からしても、コストをかけて維持しているのだし、きっと役に立つもののはずだ、という期待があるだろう。あるいは、我々は高度なことができる存在なのだと思いたい願望かもしれない。

いずれにせよアカデミックと社会の一致により、それなりの力が社会から与えられたわけだが、その結果できたのが学術会議であったり、基準がよくわからない様々な正しさであったり、女子枠だったりするので、まぁ想いは人それぞれだろうが、直接役に立っているわけではなさそうだ。しかしとりあえず金はかかっている

そんなわけだから、風当たりが強くなるのはそりゃそうだろうね。

一方で、政治経済、法学については実社会に近いのだから、必要ではないか、という意見もあるだろう。これは僕も割と同意なんだけれど、一寸難しさがあるようにも思っている。というのも、自然科学と違って確たるものがない、終着点が人間という曖昧なものであるためなのか、どうも半端にやると、為政者の尖兵として無自覚に利用されてしまいがちなんじゃないか……という懸念を持っている。為政者のご理解をしてしまうというかな……。

市民側にも文民として戦える人材が必要なのは確かなんだが、現状厳しさを増している。

それに、おそらく……この流れは、理系分野にも波及すると思う。もっといえば、アカデミックの権威自体が失墜するだろう、と見ている。ま、ちょっとこれは言い始めると話が発散するので、今回はここまで。

まぁでも、そうのなるのがいいのかな、と個人的には思うんだよ。学問なんて、誰に言われるまでもなく、好きな人は自分のリソース使ってでも勝手にやるもんだ。それが本来の学問だと思うし、その先に大学の再興もあるだろう。

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