チー牛という言葉があります。あまり良くない言葉です。元ネタはある絵描きが自画像として自虐的に描いた「スキヤの三食チーズ牛丼を頼む青年」の絵であって、しばらくは主にオタク的な界隈における自虐的、あるいは暗黙の自虐、ないし身内下げ的な文脈で使われていたかと思います。
現在はSNSにおいてフェミニストや比較的一般的な人々にまで広まっており、強い攻撃性を帯びるようになりました。タイムラインに「チー牛に育てない方法は?」みたいなのが出てくることもしばしばあります。
私はこれをみると、現代倫理が限界にきているんだなぁ、と思います。
現代的な言葉で言えば、チー牛とは男性に対するルッキズムと内面に対する性差別的なニュアンスを多分に含んでいます。これについて、いや本人の選択の結果なんだから、という反論はあるかもしれませんが、「これこれこういう理由があるので、侮辱しても差別ではない」という理屈がとおるならば、あらゆる差別は同じ理屈で無効化されます。遺伝、教育、環境など、原因は差別を正当化する理由になり得ません。
原因を問わず、属性に対する侮辱はやはり差別としか言えないものです。それが平等であり、公平です。これは差別だが、これは軽んじる正当な理由があるから差別ではない、は差別です。原理的にはそうなるはずです。
しかしそうは言っても、現実として「チー牛」なる概念は界隈のネタを超え、人々にとって身体性を持った共通認識として機能しているように思えます。私自身も、これはけっこう実感があるのです。
「ある」ものを「ない」と蓋をしても、幸せにならないのではないか?
これはそうだと思います。一方で、やはりそれは差別を是認する態度であり、あらゆる他の反差別の正当性を揺らがせるものとなります。
つまり現実は、チー牛は差別である一方、現実に身体性を持った共通の認識になっています。これをそのまま受け止めると、平等や公平という理念が、現実からNOを突きつけられている、と私には見えます。今はネットの吹き溜まりで使われているにすぎない言葉かもしれませんが、これは社会の本音ではないでしょうか。
そもそもあらゆる理念はどこかで別の理念と衝突します。たとえば、反差別は多くの場合自由の理念と衝突します。「自由のために自由を制限する」のような言葉遊びが現代では展開されていますが、これは端的に自由の敗北です。自由が公平・平等・秩序のような別の理念に負けた瞬間です。
そして今、平等・公平が現実の前に敗北しようとしています。
しかし、敗北は死を意味しません。たとえば自由は今なお理念の闘争の最前線にて健在です。ヘイトスピーチやエログロなどの領域において、これは表現の自由だとする論はあちこちで見られますし、現実に規制とその規制を止めようとする勢力が戦っています。
所詮世の中に絶対的に正しいものはなく、理念同士の競争の結果を、当世は道徳と表現するのでしょう。
そして今、そのパワーバランスがまた大きく変わりつつあるのかもしれません。それは主に、現実によって。今までの道徳が現実から乖離していると見えます。
この不確定な世の中で、私が提唱する理念……理念というより方針ですが、それは「生存」です。自分と周囲の生存率を上げること。現実に対応し、能力を高め、役にたつモノを備蓄し、他者との関係を築き、有事に備える。
チー牛に育てないと鼻息荒くするのは、倫理的な問いを別にしても、生存の観点から見て得策ではありません。それよりも、ただ生存できるように育てることが肝要と思います。もっといえば、そもそも子供のことを言う前にまず自分が生存できるかを問うべきではないでしょうか。
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