ウクライナは選挙をすべきか

こんな記事があった。

90日以内の選挙、ウクライナは本当に実施できるのか - CNN.co.jp

トランプ大統領がウクライナ(というかゼレンスキー大統領)に選挙を迫っていることについての記事だ。読めばわかるとおり、CNNのスタンスは選挙について懐疑的だ。ゼレンスキー大統領の「自由な選挙の国際基準を満たせない」を支持している形である。CNNに限らず、多分多くのメディアの論調は、トランプがまた滅茶苦茶を言っている!という感じではなかろうか。

まぁ大前提としては、ウクライナが決めることなので、他国がああだこうだ言うことではない、というのは承知のうえで、政治的影響力のない個人が意見の表明をしてはいけないということはないだろうから、あくまで個人として僕の意見をいうと、主流の論調に反して、選挙はすべきだと考えている。一応言うと、これはトランプとか完全に関係ない。まぁ厳めしい言い方をするなら、民主主義国家であるはずの国民としてそう思っている、と言ってもいい。戦争関係なく、選挙はやったほうがいい、っていうだけ。ってかプーチンは戦争やめる気ないんだから、戦争を条件にしちゃうとプーチン待ちになっちゃうんだけど、それってどうなの?っていう。予防線終わり。

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民主主義の主権国家だから

なんで僕がウクライナは選挙をすべきと考えているかを言えば、端的に「ウクライナを民主主義国家を標榜している主権国家だから」に尽きる

民主主義は、民の意思を政治に反映することを信条としているね。ならば、いかなる艱難辛苦があろうとも、それは民主主義の試練なのであり、乗り越える意思と行動、そして覚悟を見せなければならない、となる。民主主義は、そういう戦いなんだろう。

また主権国家とは、自分たちのことは自分たちで決める、ということだね。だから、その選挙が正当であるかは、自分たちの問題なので、国際基準に沿っているかどうかは二の次、のはず。だから国際基準云々はやらない理由にならないと思う。

そうは言っても対外的に立証する必要はある、というのはそれはそうなので、無視してよいとは言わないのだけれど、国際基準のすべてを満たせていないからといって、現実的に、ウクライナの選挙を誰が否定するだろう?戦時下の中、命懸けでその一票を政治に反映しようとする国家国民に対して、EU官僚が安全なところからチェックリストを眺めて「国際基準を満たしていない」と言うだろうか?言ったとして、僕らの魂は、現地の文字通り懸命なるウクライナ人と先進国の官僚、どちらを支持するだろうか?

まぁロシアは「国際基準を満たしていない」というかもしれないが、ロシアをウクライナが何をしても気に入らなければ否定するんだから無視してよい。一方トランプは認めざるを得ないだろ。もし認めなければ、アメリカ人自身がそれを否定すると思う。戦時下の選挙には、それだけの迫力がある

国家存亡は究極の状態

このように言うと、教条的で原理主義的に思われるかもしれない(民主原理主義なんて聞いたことないけどあるの?)。しかし、それはなんだかんだで日本が今平和だからだと思う。現実に、ウクライナ国民は既に命懸けの状態だ。国家存亡の危機という究極的な状況において、選べる選択肢はすべて究極の選択になってしまう。ウクライナ国民は、どの選択もすべて命懸けの状態だ。

そのような極限の状態においては、民主主義の根幹を貫く、とは決して理想主義的とは思わない。むしろ市民の現実に根差していると思う。

妨害は確実にある。ロシアは投票箱にミサイルを撃つようなわかりやすいことよりも、内部的な政治工作、デマの流布、票の細工などを試みるだろうな。でもこれは今に始まったことじゃなくて、まさに民主主義がずっと抱えてきた問題であり、民主主義の戦いそのものだ。それに負けるなら、もはや、それまでだったのだと思う。

民主主義は絶対安全の中で正しい結論を下すものではない。民がその意思を表明するために戦うものと思う。この問いは確かに究極的なんだけれど、でも前述したとおり、もうすでに命懸けの状態なんでしょう?これによって今まで平和だったのに戦争になるというならともかく、既に戦争状態、という前提を考えると、自分がその立場なら、どうせ命を賭けるならば俺の意思を示すために動きたいと思う。

記事ではインタビューしたウクライナ人は選挙ではなく戦争に焦点を当てるべきと答えたらしいけれど、でも記者は前線まで行って兵士に聞いたわけじゃないでしょう。全体としてどうかはわからないんじゃないかな(というか記者もそれがわかっているから、「ロイター通信がインタビューしたウクライナ人」というレンジを狭める但し書きをつけたんじゃない?)。

勝利の必要条件

もしかすると、なんだか民主主義の理念を抱いて死ねと言っているような響きに曲解されるかもしれないので、一応これについて答えると、僕は民主主義の意思を示すことが勝利の必要条件だ、と考えているという回答になる。まずウクライナは現実的に支援が必要なのだから、支援する側にその意思を示すことが何より重大と考える。

現実上の問題はある。記事であげられた難題として、ウクライナ国外の難民や前線の兵士はどのように投票するのか、という問題がある。かなり強烈になるが、たとえば国外の難民は国内に赴いて投票、前線では塹壕の中に本当に投票箱を設置してやる。

そんなことして投票が成り立つのかといえば、投票率や透明性、安全性の観点で大いに問題があるだろうけれど、しかしそれしかないのであれば、そうするしかない。国外から戦地の投票箱に、命の保証はないのに足を運ぶ国民、塹壕の中でなんとか規律を作って投票する国民、その姿の前に、形式的な国際基準などというものはすべて吹っ飛ぶ。むしろ基準の遵守に拘泥することこそ、民主主義ではなく形式主義に堕落していたと痛感するよ。

確かにまぁ、浪速節というか、心情的ではある。でもそれが本質なんじゃないのかなぁ。本当を言えば、この隙間こそ、技術論でどのようにもっていけるのかについて、専門家には論じてほしいと思うけどね。実際、できることはあるはず。形式的に整っていないというのではなく、最悪の中で最善を尽くすには何ができうるのかを考えるのが専門家だと思うし、少なくとも僕は自分の専門についてはそうありたい。

戦時中の選挙

単純に比較できないことは承知で言うと、日本だって1942年戦時下の真っ只中で選挙をしているわけで、戦争中の選挙自体は歴史的にも普通にある。まぁ当時の選挙が今の自由な選挙の国際基準なんてものを満たしていたとは到底思えないし、また、その結果が妥当と言えたのかはわからない。けれども、僕ら日本人はその選挙を受け入れていて、たとえ国際社会に何を言われても、それは揺るがないだろう。それは、日本国がいやしくも主権国家だからだ。

主権国家なんて言わずとも、他国の人間に自国の選挙結果についてゴチャゴチャ言われる筋合いはない、という感覚は多くの日本人が共有しているはずで、この市民レベルの感覚が重要なんだと思う。振り返って、僕は先人に頭が下がる。

まぁ80年前かつ列島の日本と、情報戦が当時とは比較にならない2025年で地続きのウクライナは状況がまるで違う、というのはわかるけどね。違いをあげればキリがない。でも戦いの激しさや性質の違いは、やっぱり選挙をしなくていい理由には僕はならないと思う。

戦争が終われば選挙やるっていうと、プーチンが戦争続けようとする限り選挙できないってことだから、逆説的にウクライナが選挙できるかはプーチンに依存するってことになってしまう。戦争してようがなんだろうが、選挙するって意思を示すことは、民主主義の独立国家として最重要なんじゃなかろうか。

形式主義を超えて

民主主義はつまり手続きで、手続きと聞くと形式の最たるものに思える。外形的にはそう。けれども、本当に重要なことは、形式の完全な遵守ではなくて、不合理な現実の中で可能な限りの形式を整えて手続きをすることではないだろうか。そのとき、手続きは単なる形式を超えた意思であると思う。それが根幹だと思う。

翻って、むしろ反省すべきは形式を過度に重視する僕らのほうではないか。国際社会は民主主義というより、形式主義に堕落していないか。だからこそ、その逆張りのトランプが、一周回って「選挙していない」と民主主義の根幹を言い当てる事態になっている。トランプの過去の言動を思えば、彼が民主主義を尊重していると思えないが、しかし結果正論を吐いているのは、マイナスにマイナスをかけてプラスに転じているからだろう。

何をどう言っても、民主主義は結局民衆の意思を示すことであって、それ以上でもそれ以下でもないと思う。その示された意思が良かったのかどうなのかは歴史がその時々で勝手に評価することで、今を生きる人は、ただその意思を示すために戦うのが、民主主義、というより、人間の姿であるように僕は思う。

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