僕が昔恐れていたものの一つに、「高学歴ワーキングプア」というものがある。旧帝卒でありながらかつては年収200万台だった時期もあるし、キャリア上の大きな不安を抱えていたから、まぁ恐れる気持ちがあったのは無理のないことだろう。今となっては多分なんとかなるという気持ちになれてはいるものの、確実と言えることはないし、また最近はキャリアの見直しをしていることもあり、「高学歴ワーキングプア」という文字列の入った記事を読むと、つい読んでしまう。
で、いざ記事を読んでみると、たいていの場合「ん、まぁ……そうなるだろうなぁ……」という気持ちにさせられる。
なぜ学歴を言うのか
彼らを苦境に追い込む一つのパターンは、わざわざ自分から学歴を言うことだ。
「学歴至上主義」に生まれた「高学歴ワーキングプア男性」がどこでも「最下位カースト」になってしまった「厳しい現実」(阿部 恭子) | 現代新書 | 講談社(1/2)
僕はこの頃、高学歴ワーキングプアとして、貧困問題に取り組む団体の活動やデモなどにも参加するようになっていました。
「栗山悟、○○大学卒業、社会学と文学の修士号持ってますが、勉強しすぎて借金まみれで……」
そんな自己紹介に、
「○○大学!凄い!エリートじゃん!」
と称賛の声が上がり、僕は嬉しくてテンションが上がりました。ただ、この反応に面白くなさそうな顔で僕を睨みつけている女性がいたのです。
「学歴至上主義」に生まれた「高学歴ワーキングプア男性」がどこでも「最下位カースト」になってしまった「厳しい現実」(阿部 恭子) | 現代新書 | 講談社(1/2)
この記事を読んでまず、何故自己紹介なんかで学歴を披瀝したんだろうかと思った。僕は働き始めてから、少なくとも自分から大学を言ったことはない。話の成り行きで言わないとかえって不自然な時には言ったこともあるかもしれない。東大など相手が高学歴だとわかっている時は言うこともある。ただそれでも、基本的には気を遣っている。
僕は学歴を色々な意味で重要な指標と考えているが、言いづらい。学歴の話題は現代社会における一つのタブーだろう。それは「女性に年を聞いてはいけないよ」というレベルものものではない。これはある種の決まり文句だが、口で言える程度のタブーであるのに対し、学歴は口に出すのも憚られる、真のタブーである。
と言いつつ、何かと話題にしたがる人はいる。まぁだいたい、雇う側の人間は被雇用者の学歴を嬉しがって話したがるもんだ。またなんだかんだみんな心のどこかで意識していることでもある(だからこそタブーにもなる)ので、近しいメンバの学歴などは、折に触れて知る機会はあったりもする。そして自分の学歴も知られることになる。現場においては、それで良かったことなど一つもないな。
学歴は一つの個人的成果
まぁ高い学歴は多くの人にとって苦労の末に得られる成果なので、鼻にかけるのはよろしくないにしても、誇らしい気持ちを持つことは決して悪いことではない。僕や僕の周囲のものたちは、類は友を呼ぶのか、やけに自信のない連中が多かったが、全体的には自信を持った人のほうが多かった……のかなぁ?どうなんだろう。今となっては過去の僕や僕の周囲の者たちに対し、おまえらはもっと自信をもってやらないといけない、と言いたくなる。
僕自身を振り返ると、かつては学歴なんて無意味くらいに思っていたが、実際に現実の社会の中で働き始めてから、どうやら学歴というのは知識労働においてはだいぶアテになる指標らしい、と思うようになった。今まで「この人は優秀だなぁ……」と思った人は後で東大卒だと知ることが幾度もあった。新卒から大企業に入った友人によれば、無能な高学歴などたくさんいるとのことだが、それでも彼もまた学歴については「アテになる」という派であったし、ちょっと検索しただけでも「高学歴は仕事ができる確率が高い」というグロテスクな研究が引っかかったりするので、まぁ統計的にはそうなんだろう。というか、そうでないと僕らが青春時代に強いられるアレはなんだったんだよという話にもなるので、それなりの時間をつぎ込んだ身としてもそうであってほしいもんである。
(検索して引っかかったグロテスクな研究: https://meisei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=2868&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1 ざっと読んだ感じ、学歴と仕事能力の関係については漠然と否定する人が多いけど、能力を要素分解して個別に聞くと、学歴と相関関係出てるね、というものだった)
僕がかつての自身の努力と数少ない成果を過小に評価していたのかには種々の理由がある。まぁ端的に言えば、ピュアだったんだろう。なんだかんだで余裕があった。無知だった。何より実績がなかった。学歴はどこまでも自分のためだったが、僕に必要だったのは他のために働き成果を上げることだった。色々あったが、それなりに実績と思えるものを積むことによって、自分のことも含めた物事について、少しずつ過大でも過小でもない評価ができるようになってきたと思う。というより、仕事で成果を出すにはそうする必要があった。現実を見なくてはいけなかった。
金にならない仕事は誰がやっても金にならない
まぁそんなわけで、高い学歴は一つの大きな成果である。しかしそれにも関わらず、それ自体は高収入を約束するものではない。だがそれは当たり前のことだ。ハイスペックなコンピュータでもそれでSNSだけしていたのでは何ら価値を生み出さない。本当にまったくもって当たり前のことだが、金にならない仕事をしていれば金がないのは当たり前の当たり前である。
もっとも、かつて僕がしていたのもまさに金にならない仕事だった。そして次のキャリアにも繋がらないものだった。僕は思い悩んだ末、本当にギリギリ、なんとか道を切り替えることができたと思う。現実の厳しさが優柔不断の僕に甘えを捨てさせてきた。しかしあと1年、欲を言えば2年早く、東京に出るべきだった……。
高い学歴を得るにはそれなりの努力と才能と環境が必要なので、それが得られる時点で基本的なスペックについてはある程度保証できる。これは非常に大きい。だが、所詮人一人の力など大したものではない。重要なことは、その力をどこでどう使い、誰にどう評価され、そしてその結果をどう金に換えるかだ。それは、個人的な成果を突き詰めるだけの受験では得られないものである。ここを間違えれば、学歴があろうとプアになる可能性は大きく上がるのだ。
大きな流れの中で
現代日本だと、難関大学から大手にいけたエンジニアなどは、案外そんなしんどいことを学ぶ必要もないまま最後まで完走できる可能性がそれなりにある。実際、大企業のエンジニアには平和な人が多いと感じる。別にそれが悪いことだとは思わない。また、スペシャリストはそのようにしないと育ちづらいのかもしれず、社会的にも必要があるのかも。ただ個人で見れば、思われているよりもリスキーだと思う。時代は常に変わる。時代に愛されたことを自覚していないと、時代が変わってその影響が自分にも及んだ時、歳を取っているほど厳しい。
まぁ僕は幸か不幸か初っぱなに躓いてしまったので、そこから起き上がって走り出すには相当学ぶ必要があったものの、若かったのでなんとかなった。その労苦は僕を成長させたが、しんどいことではあったし、割に合わないこともたくさんあった。キャリアはグチャグチャだ。とはいえ、なんとか生きられた。
そうして、大きな流れの中でなんとかもがいてつかみ取った幾ばくかのものを棹にして、僕はまた、金にならなそうなことをしようとしているのだから、我ながら呆れる。現実は確かに厳しいが、その中でなんとかかんとかやるしかないのだ。であるならば、自分自身、大きな流れの中にある小さな個であるとしても、納得できる生き方をしたいものである。
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