形式は骨、実態は肉。骨なき肉はブヨブヨの塊、肉のない骨は死んでいる。
形式には様々なものがあるが、規制や法律、目標数値などがある。ルールは形式だし、KPIも形式だ。そして決められた以上は遵守されなければならない。逆に言うと、形式を遵守されればそれを尊重しなくてはならない、とも言える。
当たり前のように思えるかもしれないが、実はけっこう難しい。
たとえば、女性初の総理大臣となった高市早苗について、フェミニストには歓迎しない者が多かったことは記憶に新しいが、これは形式遵守の裏の厳しさの実例である。
フェミニストはジェンダーギャップ指数や女性の閣僚など、明らかに形式を求めてきた。であれば、女性総理というこれ以上ない形式の遵守がされた以上、これは認めざるを得ない。
しかしそれができないのは、フェミニストにとって高市早苗は性別以外フェミニストの要件を満たしていないからだ。フェミニストからすれば、高市早苗とは形式だけで実態を伴わないものだ。
しかし、これは世間に通らない。何故ならば、高市早苗はどう見ても女性総理だからである。実際、初の女性総理誕生について、世間は大いに評価している。そしてそれはまさに、フェミニストが掲げてきたからこその高い評価でもあるのだ。
これが形式の厳しさである。形式は誰にもわかりやすく客観的だ。しかしそれだけに、その形式を満たされた時、文句も言えなくなる。別に言ってもいいが、説得力を持たない。
形式を求めるとは、形式を満たされたら認める、ということである。
だが多くのフェミニストが不満タラタラであるように、人々が本当に求めているのは形式ではない。実態だ。しかし実態は主観的な解釈であり、形を持たない。なんとでも言える世界なので、形式として形にする必要がある。法律になる。ルールになる。数値目標になる。現代社会で我々が従うべきとされているものになる。
ここに骸骨社会とでも言うべき、現代の歪みがある。形式を守らないと徹底的に叩く。それは、形式を満たされたら文句を言えない、ということと表裏一体である。形がないと人に伝わらないのは確かだが、あまりにも形式を強く主張すると、その理念は骸骨になるのだろう。
結局のところ、本当に実態を求めるならば、客観を使いながらも、大元は主観であることを認めて切実に訴えていくのが本筋なのだと思う。主観だから制度にできない。だから強制力をもたない。また主観だから誰にとっても正しいわけではない。それでも人に心から納得してもらわないといけない。時間がかかるし、不確実だ。また、自分の主観を認めてもらいたいなら、他者の主観も認めないといけないだろう。たとえそれが自分の信条と相反しても。
多くの人がそれに耐えられないので、骸骨に正義の皮を被せて力を振るうんだろう。しかしその力が通じない様を見ると哀れに思う。
これに限らず、今は制度で強制的に従わせようという連中ばかりで、その正当化に余念がない。だが誰しも他人に従わされたくはないものだ。そろそろまた、あちこち骨にヒビが入っているのかもしれんね。

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