間違えていることがわかったのであれば、君子豹変したほうがよく、むしろ自説に拘泥することの害のほうが大きい、という考えがある。これは論理的に正しいと思う。
一方で、その態度は周囲からすると「今言っていることもどうせ明日には間違えていたと言って変わるんでしょ」という疑いの目を向けられることになる。つまり、発言の重みがなくなる。
これを避けるには、間違いであったと認めるならば、同時に「責任」を取る必要がある。落とし前といってもいい。なぜ間違えたかの分析を自己正当化・言い訳ではなく真摯に行い、謝罪し、そしてそのために実害を被った人たちに対する誠実なフォローが必要だ。
そんなことを求められたら豹変できない、というのであれば、豹変しないという選択肢がある。その場合、間違えたことをしているという気持ちを抱えながら続けることになるだろうし、本当に間違えているならば、現実の歪みとなって、時には打ち倒されることもあるだろう。
何が言いたいかと言うと、豹変はノーリスクではなく、責任を引き受けることとセットだ、という当たり前の話なのだが、なんだかこの責任について見過ごされているように思われる。
君子豹変は論理的な正しさの帰結だが、その責任は人間的な話なので、論理を重んじるタイプの人は、人間を軽んじているわけではなかったとしても、無意識に見過ごしてしまうのではなかろうか。

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