惨劇が起きた理由より「なぜできたのか」についてを考えたい

[最終更新] 2022年7月10日

僕は毎日のニュースをRSSでチェックしているのだけれど、既に一昨日のニュースが大昔のことのように実感がない。それはもちろん、昨日の惨劇のせいだ。昼前、出社準備をしている時に友人から「安倍さんが」というチャットがあって、何事かと思ったら、とんでもないことが起きていた。本当にショックで、午後は仕事が手につかなかった。

ありえない、ショックだ、昨日の僕はただひたすらそれだけで、仕事を早々と切り上げ、帰ってからは疲れて眠ってしまった。結果的に、慢性的な不眠で悩む僕は3週間ぶりにまとまった睡眠を取れた。

今日になるとさすがに落ち着いてきて、昨日の事件についても考える余裕がでてきた。

起きたことについて

まず、昨日はつまり何が起きたのかについて、事実を書く。

日本でもっとも長く政権を続けられた元総理大臣が、地方での演説中に、一人の男に背後から襲撃された。男は5メートルの至近距離にまで近づいて銃を撃ち、しかしそれは外れて、もう一発撃ちなおし、そして当てた。男はその後取り押さえられた。元総理は病院に搬送されたが、助からなかった。

このニュースはたちまち日本、いや世界中を駆け巡り、衝撃を与えた。

何がショックだったか

僕も酷いショックだった。何がそんなにショックだったか。

僕は必ずしも安倍首相を支持していたわけではない。というか、彼の在任中は他に共産党くらいしか候補者がいないためにいやいや自民党に入れた覚えがあるくらいで、どちらかというと反対の姿勢を取っていたと思う。まぁなんでかっていうと、アベノミクスに反対というより、アベノミクスをちゃんとしなかったと思っているからなんだけれど。最初の3本の矢のうち、1本目以降、いつまでたっても2,3本目が放たれなかった。

ただ、評価はしていた。というのも、当時クラス替えより早く変わっていた日本の首相という位置に長くつき、安定させたことが大きい。それはあの時の日本に必要なことだったと思う。国際的にもグラグラだった日本の立ち位置をfixしてくれた。

とはいえ、では僕がまったく支持しない岸田首相であればショックを受けなかったと思えば、やはりショックを受けただろう。つまり、僕は総理大臣という立場にあった人間が、政治活動の最中に暴力でもってその口を封じられたことそのものに、強い危機感を覚えたと考えられる。

実際、昨日のニュースを知った直後の僕のツイートがこれだ。

「元総理大臣が演説中に銃撃されるとか国家としてアカン」

まぁそれだとアメリカはアカンねということなる気がするし実際アカンような気はしつつ、大袈裟ではなく、国家としての危機を感じたわけだ。一日経過して、やはりこれが僕のショックの源だったと感じる。日本の凋落についてはわかっていたことではあるけれど、それが最悪な形で、わかりやすく表出したように思えた。

「なぜやったか」より「なぜできたか」

今回の衝撃的な事件について、既に色々な解釈が出回っている。犯人の動機、背後の関係、日本の政治的状況、まぁつまり「なぜこんなことが起きたのか」で、それについて考える必要がないとは言わない。だがそれよりもまず、「なぜできたか」こそ喫緊の課題と思う。

これについての僕の考えはだいたい次のツイートのとおりだ。

一大決心した41歳無敵のおじさんがお手製のハンドガンで国家の要人を至近距離ショット再チャレンジありできるの、物理的に問題がありすぎるから、思想とか抜きにまず技術論として課題の洗い出しと、現場レベルだけでなく抜本的な組織とシステムの対応が必要。

国家の要人の警護がザル、これはいかなる国家体制であろうと共通の問題のはずだ。それが実際に起きた。

ちゃんとやっていても起きること、ちゃんとやっていないから起きること

事故は起きる。それ自体は否定できない。だからこそ、先日のKDDIの大規模通信障害の時、やけに怒ってみせる総務省とは対照的に、業界からは比較的その対応を賞賛する声が多かった。会見についても評価されており、「東証のように辞めないでほしい」と言われていた(東証の社長も、辞めないでほしいと言われていた)。

だが一方で、どうしてそんなことになってるんだと業界から呆れられることもある。たとえば2019年に起きた宅ふぁいる便のパスワード漏洩事件の時、強く批判されたのはパスワードの漏洩そのものではなく、パスワードが平文で保存されていたことだ。パスワードの暗号化は、プロならば当然やっていて然るべきことだからだ。まぁこれも見ていけば歴史的経緯や政治的・経済的な事情など相まっているのだろうが、それでもやはり正当化できるものではなく、批判されて当然であった。

つまり、「ちゃんとやっていても起きること」と「ちゃんとやっていないから起きること」があるわけだ。そして現実では両者はないまぜになって一つのことが起きる。「事故」自体はちゃんとやっていても起きるが、「事故の対応」についてはちゃんとやっていないから起きることが多い

翻って今回の銃撃事件、「ちゃんとやっていない」と素人ながら思う。実際、奈良県警やSPの対応について、職業的な誇りにかけても「彼らはやるべきことをやっていた」と胸を張れる同業者はいないのではなかろうか(というかまず同業者の声があまり聞こえてこない)。その後の奈良県警の会見も、すこぶる評判が悪い(民と比べて、官があまりにだらしなくないだろうか)。

必要なことは改革

現場の対応レベルでも多くの問題が指摘されているが、そもそも場所取りの問題、またより大きく警備体制自体の問題、街頭演説そのものの是非、さらに法的には昨今話題の表現の自由との絡みで過去の判決が警備を萎縮させたという指摘もある(もちろん反論もある)。

ミクロな問題と片付けず、巨視的な視点で、組織やシステムそのものに疑義を投げかけ、抜本的な改革が必要だ。単純に警備人数の問題などと形式的に片付けては絶対にいけない(100人にしても100人がぼーっと見ていそう)。演説中の政治家の5m以内に人を近づけてはいけないことにする、とかそういう問題でもない(今度は10m遠くから狙撃されるだろう)。

形式ではなく本質を考えて、それを柔軟にシステムとして反映していくこと、つまり、改革していくこと。これは他の多くの問題でもそうだ。それこそ、安倍首相がなしえなかった、最初の3本の矢のうちの2,3本目にも繋がっていくだろう。

成長のための、抜本的改革。国としても、個人としても。恐らく日本で最も影響力があったであろう、彼の政治家の冥福を祈りつつ、僕の一票はそのために投じる。

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