夫婦別姓と苗字と集団主義

生涯未婚も見えてきた三十代後半独身男性たる僕にとって、夫婦別姓問題ほどどうでもいい問題も中々ない。まだしも岸田文雄の朝飯のほうが関心がある。いやない。

だったら記事にすることもないんだが、この問題はしばしばその人が前時代的かどうかを測る試験紙にされがちなので、一応頭の中を一度くらいは整理しておこうかと思った。

目次

どちらかならば別姓賛成に投じる

まず僕自身は夫婦別姓はどうでもいいというスタンスなので、賛成も反対も基本的にないが、どちらかに一票を投じなけいとお前の親を殺すと脅迫された場合は、仕方がないので「賛成」に投じるだろう。親はいいから結婚しろと言うだろう。

何故「賛成」かと言うと、そのほうが僕の思想に多少なりとも近いからだ。僕の思想では、そもそも苗字や名前自体どうでもよい。苗字は廃止して、人間の名前なんか全部UUIDでいいと思っている。ただUUIDだとさすがに覚えづらいので、本人の自由意志でエイリアスをつけることが許可される。エイリアスはいつでも変更可能だ。これが僕の考えだ。

しかし、この考えが世間一般においては異端であり、決して受け入れられないものであることくらい、僕だって曲がりなりにもこの社会で生きて歳を重ねた人間なのだからわかっている(そして結婚できなかった理由もわかられる)。したがって、夫婦同姓も夫婦別姓も、僕の考えから外れているためどちらも支持していないが、どちらかといえば多少自由度のある別姓のほうが近いと言えなくもないので、どちらかに入れなければいけないのであれば、夫婦別姓に入れる、という程度のものだ。

自分自身は「こちら(夫側)に合わせてくれ」と頼むだろう

そんなわけだから、当然積極的に夫婦別姓を支持することはない。ついでに、もし何かの間違いで結婚することになれば、僕は「姓はこちらに合わせてくれ」と頼むだろう。何故ならば、それが今の日本社会における普通だからだ。そして僕の親もその普通を望んでいることを、僕は知っているからだ。ただし別姓制度が法的にできて、相手が別姓を望めば、別にそれは構わない。ただ子供の姓はこちらに合わせてくれないかと頼むと思う。結局親も、望んでいるのはそれなので(そして僕にその相手はいない……)。二人できたら一人ずつでもいいよ。合わせてもらうのだから、なんらかの形で埋め合わせはしたいと思う(何をどうしたらいいのかはわからんけど……)。

名前は文化、名前は歴史

ということで、僕自身は消極的夫婦別姓支持派になるかもしれないが、夫婦同姓でも別に構わない。どうせどちらも僕の考えとは違う。

ただ、欧米にならって変えるというのは違うだろう。名前のあり方に正解などなく、今の欧米が正しいわけでも今の日本が間違えているわけでもない。名前のあり方はその国の文化であり歴史である。

日本語における名前とは、狭義ではファーストネームのことを指すが、広義では苗字を含める。苗字はあるのに「下の名前」のみを明確に指す言葉はないようだ(それともあるのか?)。これは日本の文化を大いに反映していると考えてよいだろう。また、苗字の「家名」的な響きは、family nameという言葉では表現できないと思える。つまり、日本にとって苗字は欧米のそれよりも重要な意味がある。

このような文化的背景の違いを考えれば、今日の日本で夫婦別姓について侃々諤々になのは必然であろう。多くの場合女性側が男性側に合わせることが多いという社会的な現実もあるため、しばしば女性の人権問題とも結びつけて語られるが、問題の本質はむしろ「家」であり、これはより包括的な観念の問題だ。もし手続きの煩雑さなどの実務上の問題と見做すのであれば、恐らく夫婦別姓とは異なる解がある。

同性派も別姓派も集団主義者

などといってきたが、僕自身の考え方は最初に述べたとおり、「苗字も廃止して本名はUUID、個人が自由にエイリアスつける」という超個人主義的な考え方なので、そんな僕からすれば夫婦同姓派も夫婦別姓派も本質的には大差ない集団主義者である。仲良くしろよな。

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