「金持ちを貧乏にしたところで、貧乏な人が金持ちになるわけではない」という一節があります。これは完全にそのとおりなので、現代でもよく言われます。
しかし、それでも貧乏人は金持ちが貧乏になることを望む、ということは理解すべきだと思います。これはしばしば貧乏人の不合理なルサンチマンのように語られますが、決してそうではありません。これは極めて合理的です。
たとえば、40点が赤点のテストで、20点しか取れない人がいるとします。赤点の人は彼だけです。彼はとても惨めです。いつも馬鹿にされています。
ある日、テストが非常に難しくなりました。彼は20点が15点になりました。しかし同時に、50点から70点くらいとっていた人たちに、赤点を取る人が続出しました。なんなら20点、やる気をなくして10点にまで落ち込む人も。100点を取れる人はいなくなりました。
すると、どうでしょう。彼の点数は15点と下がっていますが、気持ちは楽になるのではないでしょうか。みんな赤点ならば、自分の赤点は目立たなくなります。馬鹿にする人は減りますし、一緒になって馬鹿にしてくる連中に反撃することもできるようになります。
つまり、低スコアのものにとって、高スコアのものが落ちぶれることを望むのは合理的です。それによって、彼自身の絶対的な点数は変わらない、むしろ下がるかもしれませんが、「社会的な扱い」という相対的ポジションが圧倒的に向上します。
そして、資本主義においては所得がスコアにあたります。所得と社会的地位には密接な結びつきがあり、それはとりもなおさず社会的な扱いに直結します。我々は給与を見て就職先を決めます。人々が低賃金労働をしたがらないのは、きつくて嫌だというわがままではなく、そこに尊厳がないからです。移民が低賃金労働をできるのは、先進諸国で母国よりも高い水準の給与で働くという尊厳があるからです。
したがって、金持ちが貧乏になると、貧乏人は確かに経済的には貧乏のままですが、どこまでも相対である社会的な扱いが向上します。以上より、金持ちが貧乏になることを望むことは、貧乏人にとって単なるルサンチマンではなく明確な合理性があります。
さらに重要なこととして、テストの異常な難化や理不尽な出題、機会の損失、不透明な基準などによって赤点を取った者は、テスト自体について不合理であるという想いを抱きます。その中でハイスコアを取るものを、必ずしも尊敬しません。贔屓されているとか、テストの出るところを教えてもらっているとか、高い塾で効率的なやり方を教えてもらっているとか、色々な噂が出始めます。心穏やかではありません。たとえ90点を取っていたものが60点になっていたとしても、60点から30点になったものにとってそれは気休めにもなりません。彼らはただ、憎しみの対象です。
確かに分布は重要です。しかしそれ以上に重要なことは、赤点に落ち込んだものがどれだけいるかです。100人いて50人が赤点を取ったならば、テスト自体の正当性を疑われます。そして正当性のないテストでハイスコアであるという理由で高い扱いを受ける人は、もはや許されません。
今、世の中でそういうことが起きつつあるのではないでしょうか。だからといって、それで所詮我々小市民になにかできることがあるわけではないのですが、しかし「金持ちが貧乏になっても貧乏人が金持ちになるわけではない」という正論が、もはや意味をなさなくなっている、というのは認識すべきことだと思います。
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