高校無償化は4月予定通りに、11年ぶり暫定予算 暮らしへの影響防ぐ - 日本経済新聞
高校無償化が今春より実施される運びとなったが、いったい本当のところこれを求めていた人はどれだけいたのかと思う。まぁ高校全入になって久しいから、事実上の義務教育になってしまっていたかもしれず、それは確かに家計にとって負担ではあっただろう。一市民としては目の前の負担を減らしてほしいという人は多いかもしれない。
そういう現実の負担を前にそもそも論を言っても仕方ないのだが、そもそも本当に全員が高校に行く必要はあるのだろうか。かつて高校生であったならば、現代の大人のほとんど高校レベルの学力を有していないことは知っているだろう。いや、それどころか中学レベルも怪しい。
それでも市民は教育を支持する。といって、別に自分が今から高等教育を受けたいわけではないし、そんなことは御免だ。そんなことしてなんの役に立つ?
実のところ市民が欲しがっているのは教育ではなく、「社会的地位」と「収入」である。ただそうは言えないので、教育というオブラートに包んでいるに過ぎない。
実際、死活問題である。資本主義社会においては地位と収入はほぼセットになるので、片方を得られれば両方得られるし、片方を得られなければ両方を得られない。そうすると社会的な扱いは随分悪いものになる。
そのチケットである高卒・大卒に群がるのだが、チケットを増やしたところで椅子が増えるわけではない。
椅子は変わらないままにチケットの発行枚数だけ異様に増えたため、本来は優待券だったものがいつの間にか入場券になってしまった。高卒資格などは現在の日本社会では事実上必須となっている。ここで溢れると非常に厳しい。この時点で高卒は「コスト」になった。
一方大卒チケットも既に供給過多であるため、成人を超えて国費の支援を受けながら学びの時間を増やしたところで、結局望んだ結果は得られない。出口となる椅子の数と配分が変わっていないのだから、入口をいくら伸ばしたところで全体の結果は変わらない。
また、その椅子に必要な能力と大学教育の内容もまた乖離している。なので、本当に必要なことを学ぶのは、結局仕事を初めてからだったりする。一応その基礎を大学で学ぶと擁護することは可能であるし、一部事実だが、それに四年ないし六年本当に必要かは疑問だ。工学系などはいつの間にか修士が当たり前になってしまっている。
実感としては、さすがに全員を博士にしろという圧力はかからないと思われ、教育の長期化はここで打ち止め感がある。博士となるとストレートでも27になってしまうため、そのコストはさすがに支払えないし、なにより25という節目を超えて学生が普通は単におかしい。
多分、20もだいぶおかしいのだが、20はまだ肉体としても若いので、同じ括りでギリギリである24まで伸びてしまったという感じがする。しかし25以降になると言い訳できない明らかな成熟がある。それは大学に残るならそれを生業にすると覚悟を決めた者のはずで、就活予備軍であっていいとは思われないだろう。
だが現実として院卒までは既に一部業界で必須になりつつあるため、この先も大学無償化などを言い始める政治家は出るものと思われる。というか、既に出ている。本当に求められているのは中卒でも得られる社会的地位と収入の確かな椅子だが、それは産業の結果であるので政治家に約束できるものではない。
だが、恐らくはタイムアップだ。教育の長期化は結局余裕の生み出した虚の産物であって、実を伴っていない。教育自体が長いバブルであったと思う。これから社会全体でその実が削れていくことが誰の目にも明らかになる中で、生存に対する切迫感が総合大学の権威そのものを疑わせるだろう。そして最後に残ったものが、本当に必要だった教育とされるものだろう。
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