新型コロナの猛威(というほど日本では流行っていないように見えるが…)の前に、我が国の政府や各自治体における、リーダーと呼ぶべき立ち位置の人たちの真の実力や人間性が顕になってきている。すべてのリーダーが、何かしらの決断を迫られ、何もしない、先送りするという選択も含めて、日夜決断を続けている。
その中で、リーダーに求められるものはなんだろうか、リーダーシップとただの横暴は何が違うんだろうかとか、そんなことをつらつら考えていたので、ここにまとめる。
リーダーの決断
リーダーの仕事は、突き詰めると決めることだ。といっても、コイントスで決めて良いはずはない。決めること、それはたいへんなエネルギーを要する一番大事な仕事である。
リーダーの決断には、大きくわけて3つのプロセスがあると思う。
- 何を決めるのか決める
- どうするのか決める
- やるかやらないか決める
この3ステップすべてを愚直に実行できると、リーダーシップを発揮している、と評価できるのではなかろうか。
何を決めるのか決める
まず、問題となっているものは何かを知らなくてはならない。それを知るのは多くの場合ユーザーと言われる第三者だ。例外として、自身に関わることであれば自分自身が知っている、というか他の人は知らないので、他の人に聞いてはいけない。
政治家ならば民の声を聞き拾い上げることだし、サービスの開発者(この開発者、とは技術者ではないマネージャーやステークホルダーも含む、かなり広い意味で使っている)であればユーザーの動向や評価を知ることだ。
困っていることを見つけ、解決のための課題を設定する。
どうするか決める
課題がわかれば、今度はどうするか決めることになる。これは専門家の力が必要で、しかもたいていの場合複数の分野にまたがった専門的な力が必要とされる。リーダーは専門家たちの間にたって、彼らの意見をよく聞き、まとめあげ、そのうえで最終的な決をしなければならない。
したがって、リーダーには種々の専門家の言葉を理解できる程度の専門的知識が要される。そのうえで、各分野の意見を総合的にまとめあげ、本当にやりたいことを見据え、結局どうするのか、最終的な決を自分の中で取る。
やるかやらないか決める
ひょっとするとこれが一番難しいんじゃないかと思うのは、やると決めることだ。課題はわかった、現状最適と思われるやり方も考えた、で、やるのか、やらないのか。
やってしまいがちなのは、「保留」である。やるべきことはわかったが、あまり拙速に動いたらうまくいかないかもしれないし、関係者の調整もあるし、まぁもうちょっと時宜を見て……。具体的なことは一切決めず、なんとなくの状況説明と精神論に終始し、「やがて何かをするであろう」、なんて言っている間に状況は変わり、ここまでの議論は水泡に帰す。
なぜそうなるかというと、結果に対して責任を取れないからだ。やるかやらないか決めるということは、責任を取るのかどうか決める、ということでもある。
世の中に100%はない。最善を尽くしてなお失敗することは往々にしてある。そのほうが多いくらいだ。むしろ、考えれば考えるほどに、うまくいかない場合、最悪のケースが脳裏にちらつく。
技術者でいえば、技術を身につけると採用する方策のメリット・デメリットがよくわかるので、100%うまくいくわけではないことがよりよくわかり、失敗時の対策は打ててもやはりそれは所詮対策に過ぎず、失敗は失敗であるし、想定外のことはどうやっても起きる。それでも最後のエンターキーを押す力は、技術力ではない。
リスクを受け入れること。どんなことになっても責任を取ること。
実は、これさえできていれば、少なくともリーダーといってよいのではないか、という風にも思う。前2項目ができていないと、だめな決断ばかりする質の悪いリーダーになってしまい、結局誰もついてこない気はするが。
逆に、ここまで全部できていても、これができなきゃリーダーではない。前2項目は良い決断のための条件であって、リーダーの条件といえるのは、ただ決めて責任を取ること、それだけなのかもしれない。
翻ってこの国は
まぁ世の政治家や首長たちを見ていると、なかなか難しいことなのだとは思う。今の所、吉村大阪府知事が比較的リーダーシップを発揮しているように見える。パチンコ店の公表などはやりすぎだとの批判もあるし、国の方針との間で苦慮している面も見られるのだが、制約の中でできることをなんとか頑張っているという印象だ。
大阪は大阪モデルという独自の仕組みを採用し、緊急事態宣言について段階解除していく方針をそうそうに打ち出した(この態度にもっとも慌てたのは、いつもどおり空気を見て適当にやるつもりだった官邸ではなかろうか)。で、独自の解除の末に感染者が増えたら、それは「吉村がやった」と思ってくれて構わない、というような知事の言をどこかのツイートで見た記憶があるのだが、探したけれど出てこない。ただまぁ、そういう態度であることはそうなのだろうし、そしてそれはリーダー的な態度だと思う。
一方東京都の小池都知事は、何を決めるべきかを知り(彼女は実に空気を読むのがうまい)、また決めることもできていそうなのだが、どうすべきかがわからないように見える。豊洲の時と一緒だ。これは都知事に信じられるブレーンがいない(少ない)ことと、都知事自身に信念といえるべきものがない(失敬!)ことに起因していそうだ。
ただ、多くの首長や政府のトップが、すべて出来ていないようにしか見えないことを鑑みると、我らが都知事はマシな部類ではないかと思う。つい最近も、緊急事態宣言を解除しておきながら「気の緩み」が見られるなどと宣い、組織の実行計画ではなく個人の気持ちに最終的な責を求めた政治家がいたようだが(「“気の緩みで感染再拡大も” 経済再生相が外出自粛の継続要請 | NHKニュース」)、これなどは典型的な責任取る気ゼロの現れといえる。経済界から突き上げくらって緊急事態宣言は解除した、そのせいで感染が増えたら国民の気の緩みのせいだってことさ。徹底的な責任回避。大したもんだよ。
国や地方のトップ連中がこの醜態であるから、まぁ民間でも状況は似たようなものでも不思議はない。特に中小企業のトップや管理職であると、権力の及ぼせる範囲こそ小さいものの、その影響力は見えやすく、その癖他所から介入されることも少ないので、暴走する者もいるようだ。定期的にSNS等で晒し上げられているが、氷山の一角であろう。
リーダーの決断と似て非なるもの、裸の王様の横暴
現場から裸の王様のように扱われている自称リーダーは多いと思われる。裸の王様は人の話を聞かない(例外的に仲の良い者や身内の言葉は聞くこともある)。分析もしない。自分の目に見えていること、思ったことがすべてだ。
したがって、まず何を決めるべきかを知らない。彼らはきまって、頓珍漢なことを言い出し、どうでもいいことばかり決めたがり、その癖本当に決めるべきことを決めない。専門家の意見は無視され、素人の直感と感情でやることが決まる。そしていざやるとなれば、巧妙に、どうなっても自分が責任を取らなくていいような段取りをしている(これは本当に感心する)。何かあっても、俺はそんなこと言ってないとか言い出す。証拠なんかつきつけたら知らんぷりして断罪さ。
そういう胡散臭いやり方は、なにかしら現場にも伝わるもので、実際「これほんとにやるん?」「どこまで本気なん?」「どうせ明日には言うこと変わってるんでしょ」という白けた空気感のもと適当に回され、まぁとどのつまり実質的に何も進まない。
このような者は本当にいる(いた)が、厄介なのは、傍若無人であることを彼ら自身はリーダーシップだと勘違いしていることだろう。が、実際にはやってることがすっちゃかめっちゃかで責任も取らないので、下からは信用されていない。時々お前は裸だと声を上げる勇気ある者もいるのだが、そんな気に入らない奴は権力で断罪するので、彼らは永遠に素っ裸である。
ということで、前節の3条件を逆方向にすべて達成すると、見事に裸の王様の横暴というわけだ。おっと、どうやらたくさんいるようだな?こういう連中がなぜ上にいけるのか、それはこの国の仕組みが大きく関係しているように思うのだが(我々市井の一庶民も決して無関係とは言えない)、まだ考えが固まっていないし、本記事の本旨から外れるので、ここでは置いておく。
まぁこんなこと考えなくても、人間というのは案外よくできたもので、横暴には違和感や嫌悪感という形で我々の中に現れるのだが、もし「奴はリーダーなのか?裸の王様なのか?」ということを理屈として考えたいならば、本記事の考え方は結論を論理的に下す一助になるのではないかと思う。
まぁだいたい思ったとおりの結論だろうさ。そんな奴からはさっさと離れるに限るが、しかし自分とこの首長がそうだと、なかなかちょっとたいへんだな。どうせ話を聞く気もなけりゃ責任取る気もないんだから、連中の言うことなどクサして酒の肴にするくらいしかないと思うね。たった一度の人生の、僕らの行動を制限するには、あんまりにも適当じゃないか。みんな大好き自己責任のもと、僕らは一人ひとり自分が何をするか、決断していくしかないんだ。
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