なんで突然ミニマリズムについて考えたくなったのかわからない。ミニマリズムは僕が社会に出た頃に流行っていたので、僕の思想にそれなりに影響を与えているのかもしれない。ちょうどあのくらいだから、リーマン・ショックの後から2010年代後半くらいまではそこそこ流行ってたんじゃないかな。
ミニマリズムが応えようとしたもの
ミニマリズムを乱暴を承知で言うなら、「モノの最小化」になると思う。「持たない暮らし」なんてキャッチフレーズもあったな。その目的は、「自分の本当に大切なこと」に集中すること。それは見せかけのブランド信仰、大量消費に反旗を翻すものとも感じられた。
実際、そういうものが求められていたんだと思う。みんな疲れていたんだろうな。リーマン・ショックで疲弊していたし、無理して高価なモノを買っても自分を幸せにしない!という気分はあったかもしれない。社会から求められるあれやこれやに、うんざりしていたのかも。
そんなものは欺瞞だ。いらないものを売りつけるのはやめてくれ。人生は何をもつかよりも、なにをするかだ!
プライベートジェットを乗り回しているボンボンよりも、いつも同じタートルネックでステージに上がるスティーブ・ジョブズがかっこいい、服を悩む時間すら無駄、そんな時代だった。
しかし、今や持たない暮らしなんて言っている人はほとんどいないだろう。現実として、パンデミックを知ったら持たない暮らしは幻想としか言えない。また、30年来日本人が経験しなかったインフレによって、「所有」の大切さを思い知らされている。今日買えたものが来年買えないかもしれない、という切実な不安がある。明日はどのサブスクが値上がりするんだろうと思う。
身も蓋もないが、結局自分も社会も複雑なのであって、最小化できないんだろう。しかし、だからといって振り回される生活にはいい加減辟易とする。「持たない暮らし」が幻想であったとしても、その幻がどこに立脚していたのかは、今一度考えたい。
持たない暮らしで生じる矛盾: 外部依存
「モノの最小化」が生んだ決定的な矛盾の一つは、深刻な外部依存による脆弱性だ。それは社会基盤に依存し、社会のあらゆるサービスに依存する。だから社会が壊れたら、一蓮托生で真っ先に壊れる。
パンデミックのような有事を想定せずとも、平時においても、依存することによって、常に依存先に振り回されるということになる。ストリーミングサービスはその時たまたま配信されているものを見ることになるし、もっといえば見せたいものを見せられることになる。サブスクや日用品などの、あらゆる値上げに怯える生活になる。
これでは、大切なことに集中どころではない。
この自立から依存への反転は深刻な矛盾といえる。外部依存の多さは、理念を達成するうえで有事はもちろん平時においても無視できない脅威だ。
思えば、2010年代は、比較的社会が穏やかな時期であった。各種サービスもそこまで横柄ではなかった。社会もサービスも安定して提供され、サブスクはだいたい安かった。だからこそ、社会への無邪気な信用があったのかも。多分パンデミック以降に、すべてが変わったんだなぁ。
根本的な限界: 人間の生活はグラデーション
「持たない暮らし」自体に対するそもそもの違和感は、当時からあった。昔読んだ記事に、「お気に入りの同じシャツ数着と、小さな椅子と机、その上にあるMacBook、それだけ」という人がいた。正直、多くの人はそこに不気味さを感じたと思う。いくらなんでも殺風景にすぎるし、刑務所の独房でももう少し何かありそうだものね。実際、その人ももうその暮らしはしてないんじゃないかな。
まぁそれは極端にしても、モノを切り捨てていくことに、先にあげた外部依存の脆弱性とは異なる、もっと本質的な違和感を多くの人は持つはずだ。
たとえば、僕のギターだ。僕は昔ギターを弾いていて、今も未練がましく手の届くところにサイレント・ギターがある。本当に弾きたいと思っているはずなんだが、実際には引いていない。まず弦を張り替える必要がある。
さて、ミニマリズムの考えに照らし合わせると、僕はこのギターを捨てるべきだろうか?
恐らく論理的には捨てるになるのではないか。だって弾いてないもん。それが答えでしょ。もし本当に弾きたくなったらまた買いに行けばいい。
しかし僕はそれを拒む。このギターを捨てた時、僕は本当に自分自身の中で何かを捨てたと感じられる。それはもう楽器屋で買えないものだ。そういうものがある。
まぁミニマリズムにおいても、こういった思い入れを重視して捨てないことは、ときめいたらOKのこんまり理論などにより正当化されるかもしれないのだが、これはあくまで一つの例であって、実際には似たような「微妙なもの」とは存外多い。
少し好きなくらいの映画、ストリーミングサービスにあることを期待してDVD捨てていいんだろうか。別にめっちゃこだわりがあるわけじゃないけど、PCに別のスピーカーほしいのは本質とは言えないから買ってはダメだろうか。1画面でもいいっちゃいいけど、2画面あったら便利だなぁと思うのは本質ではないだろうか。あんまり着ないけれど持っておきたい服がある、たまに使うだけだけどこだわりはキッチンツール、なんかこれは持っておきたいと思うあらゆるモノ……モノに対する名状しがたい執着は、果たして切り捨てて良いモノだろうか。
確かに使う予定もないのにステータスシンボルとして買う高級車は、多くの場合切り捨ててよいものだろう。だが切り捨てる必要のないものもあるし、なんなら切り捨ててはいけなかったものもある。すべてはグラデーション。
グラデーションである以上、最小化は捨ててはいけなかった何かを捨てる危険性があるし、それは消えない痛みになる。これは根本的な限界であったと思う。
複雑に繋がる社会の中で
人間の生活はカオスで、社会が複雑になる中で、もはや自分でも何をしているのか、何がなんだかわからない、という悩みは切実だと思う。これは今も確かにあるし、ミニマリズムが一部でブーム化したのも、やはりそういう背景があってのことだろう。僕自身、ミニマリズム的な考え方はそれと知らず影響を受けているはずだ。賃貸派なのとか、合理的なつもりなだけで、案外こういうところに端を発しているかもしれんね。
でも今、僕は家を探していたりするんだよね。それも普通の家じゃなくて、どちらかというと、何が起きても生きていられるための保険というかな、基盤というかな、そういう目で見ている。だからなんか集落みたいなんも選択肢にあがっていたりする。実際どうするかはわからないが、これも時代が変わったということなんだろう。
結局、世の中は複雑だし、その時々で求められるものも変わる。自分というちっぽけな存在はその中で流されているに過ぎない。例外はない。あの傍若無人などこぞの大統領すら例外ではない。彼が大統領になったのではなく、時代が彼を大統領にした。時代は大きく複雑だ。しかし自分は眼に見えることしか結局見えない。すべてを見るものはいない。
理解できない世情を見据えて、これと信じたものに単純化する。それは単純化であって、現実ではないから、うまくいく面といかない面がある。その痛みは受け入れていくしかない。ただその痛みにはできるだけ自覚的でありたいと思う。



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