正論は暴力か

正論は暴力だ、と言われることがあります。正論それ自体は、ただ正しい論であって、前提に基づく論理展開でしかありません。しかし確かに、我々はその正論になにか暴力性を感じることがあります。

正論の前提には、それを守らせる裏付けには力があるからでしょう。正論に「この論理を守らなかったらどうなるかわかってるよな?」という響きを伴う時、それは明確に力の行使の代替です。

もう少し詳しく言うと、次の条件が重なったときに、正論は暴力性を帯びます。

  1. 前提が共有されていない、納得していない、あるいは守れない個別の事情がある
  2. 前提を守らない場合、力の行使がある

逆に言うと、前提が共有されている間柄では、それは違うんじゃない?という確認になりますし、力の行使が伴わないならば、それはただ意見の表明です(補足ですが、無自覚に力の行使を期待する例はSNSなどで多々あります。たとえば道徳的ではないことを指摘し、他の人が同調して叩くことを暗に期待するようなものは、これは単に意見の表明ではなく力の行使に入ります)。

しかし、前提が必ずしも一致せず、それにも関わらず片方の正論で力を行使できるならば、そこに暴力性が生まれます。相手の意思に関わらず、屈服させようとしているからです。

実際に屈服させるのは多大なコストが必要です。時には犠牲を伴います。たとえば先日、家賃滞納で退去命令が出された男は、その強制執行にきた執行官を刺殺しました。

逮捕の男、家賃40万円滞納 退去命令で自暴自棄か―杉並2人死傷・警視庁:時事ドットコム

これは法律という国家における究極の前提について、守らなかったものに実際の力の行使をしようとした例ですが、最悪の結末になりました。このように、力の行使は実行する側にも大きなコストとリスクを伴います。できればやりたくありません。

まずは正論で持って勧告し、相手がしたがうならば、それに越したことはありません。この観点では、正論とは実際に力を行使せずに力の行使と同等の効力を発揮する、コストの低い暴力と言えます

つまり、正論に暴力性を感じるのは、背後に実力行使がチラつかされている時です。正論そのものは暴力ではありませんが、暴力を代替するツールになりえます

ここで注意すべきことは、暴力は社会の安定に必要なものであるという冷厳な事実です。家賃を払わない者を放置していては、社会は成り立ちません。力の行使は、時に必要です。

しかし必要であったとしても、それは暴力なのだ、ということは認識して然るべきだと思います。相手を殴れば手が痛くなる、その程度の痛みは当然引き受けるべきことです。また、相手が決死の反撃をしてくるリスクも当然覚悟しなければなりません。

相応の痛みとリスクを覚悟しているならば、ご自由に。

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