備蓄は社会に相互不信を生む、みたいなツイートが回ってきた。つまり備蓄しようとするのはリソースを奪い合うゼロサムゲームだから隣人が敵に見え社会全体はまずしくなる、と。しかも備蓄は時間稼ぎでしかなく抜本的ではない、モノを持つより技能を身に着け、関係を持つべきだ、と。
これはツッコミどころが多いのだが、一番のツッコミどころは備蓄が不信を生むのではなく、不信の結果が備蓄だ、という因果関係の逆転だろう。これは鶏卵ではなく、明確にそう言える。
なぜならば、備蓄とはコストだからだ。株式投資のように利益を期待するものではない。備蓄は金と手間と空間を使う。しかもその癖、役に立つかはわからない。備蓄は投資というより保険の性質に近い。
意味のないコストをかける人はいない。ではなぜ備蓄をするのかといえば、そこにリスクがあるからだ。社会への不信とも言えるかもしれない。治安の悪化、物流の崩壊、孤立のリスク、挙げればキリがないが、そういった不信、というより不安があるから、備蓄という保険を買う。
備蓄が不信を生むとは因果が転倒しており、火災保険に入るから火事が起きるというようなものだ。
また、モノ・技能・関係はそれぞれ経済資本・人的資本・社会関係資本に分類されるが、これらは独立した要素であり、どちらかしか取れないものではない。というより世の中は残酷で、片方を失うとしばしば両方を失う。金の切れ目が縁の切れ目というやつだ。
もちろん、人的資本や社会関係資本を持つことは否定されない。だが、それはモノを持たなくてよいことにはならない。また、それらはモノを持つより難しい。モノなら今日から蓄えられる。だが能力はそうではない。サバイバル技術は一朝一夕で身につかない。人間関係に至ってはマイナスの関係すらありうる。ついでにいえば、モノを持っていると関係を良好にしやすい面もある。ちょっと考えればわかるだろう。
したがって、モノより技能・関係とは誤った二者択一を提示しており、詭弁である。
また、備蓄が時間稼ぎという指摘はそのとおりだが、そんなことはわかったうえでみんな備蓄をしている。いざということが起きたときに、時間というリソースを確保するために備蓄をしている。だからこそ、生産の手段を模索したり、略奪の心配したり、中には飢えるくらいなら略奪する公言する者までいる。備蓄すればいいと思っている人などいない。いない人を批判するのは典型的な藁人形論法である。
因果の逆転と誤った前提からスタートしているため、そこにどんな論理を積み上げても間違えているのだが、論理の積み上げ方も古典的な詭弁の手法を駆使しているように見える。別にSNSで何を言おうが勝手ではあるが、なぜそのような詭弁を弄するのか理解しかねた。
かなり穿った見方をすると、このようなツイートをバズらせることで、人々の行動を遅らせ、その間に自分はたっぷりと備蓄をしようという魂胆があるのか、とすら思えた。が、さすがに自分のツイートにそこまでの社会的影響力を期待するはずはないか?ではなんだろう、本当にそう思っているのだろうか。
そういえば昔の自分もコロナ騒ぎの時にマスクの買い占め転売ヤーについて批判的な記事を書いたことがある。

この記事では以下のような情緒的な考えを書いている。
だが、個人的な合理性だけではなく、社会的な合理性という面を考慮してもよいのではなかろうか。「奪い合えば足らぬ、分け合えば余る」、とは情緒的に過ぎる言い回しかもしれないが、全体で見れば合理的である。社会的な利益は、結局個人の利益にも繋がる。
しかし同時に、以下のようにも書いている。
もちろん、今必要な人が必要な分だけ買おうとしていることはなんの問題もない。今現在進行系で人間の尊厳が試されつつあり、「インド式」で検索をかけている人はありとあらゆる手段を講じてトイレットペーパーを入手してほしい。頑張ってください。
つまり僕は、命に関わるようなものを買い占めたり転売したりすることについては倫理的観点から批判的ではあるが、必要なものを買う分については当然としている。備蓄についてはこの時考えていなかったが、しかし備蓄とは前述したとおり、悲観的な未来の可能性を考えたコストをかけた保険であるから、恐らく当時の僕が考えても否定的にならなかったであろう。
僕自身の一貫した考えとして、今この瞬間の人の不安については直視する。不安を直視せず、高邁な社会的理想で押しつぶすというのはありえない欺瞞であり、もっとも嫌う考え方だ。
あのツイートがどういう意図でなされたのかはわからないが、明確に欺瞞であると思う。今は明確に政情不安であるので、定まらない未来を不安視し、コストをかけて備蓄するのは、正当な行為だし、むしろやっておくべきだと思う。今ならまだあるし、なんなら廃棄されているだろう。準備している個人は多いほうがいい。崩壊してから求められるほうが、社会にとって余程困ることだ。
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