もうだいぶ前の話になるんだけれど、藤井聡太の女流棋士新制度に異を唱えた記事を見た時に思ったことは、あー、言わせてしまった、ということだった。
藤井七冠が羽生前会長の面前で「女流棋士新制度」に苦言 「棋力の担保は取れているのでしょうか」(全文) | デイリー新潮
まぁ言わせてしまったもなにも、当人からすれば思ったことを言ったのだろうし、こんなことで集中力を妨げられるような精神ではないだろう。しかしまぁ、SNSなんかで集中砲火浴びて、ひでぇこと言われているのをみると、二十三の男子に背負わせてしまっているなぁ、という気はするんだな。
なんでそういう風に思うのかというと、これは本来はもうちょっと酸いも甘いも知った者が、物申すべきことなんじゃないのか、と感じるんだね。実際、だいぶ酷いこと言われているのだし。いかに才気煥発とはいえ二十三。なぜ若者が矢面に立たないといけないのか。
将棋の世界は実力至上主義で年齢は関係ない、という理屈があるのかもしれないのだが、しかし実力至上主義ではないことをしようとしているから問題になっていることのはずだ。僕は将棋を知らないけれど、棋力に性別が考慮されることがおかしいことくらいはわかる。これは将棋の問題ではなく、社会的な問題だ。社会的な話なのであれば、より先に人生を歩んだ者が前に立つのが筋ではなかろうか、という風に感じられる。
最近は実力主義のところに、なぜか性別が差し込まれる事案が多発していて、たとえば受験の世界においても、最近は女子枠なるものがある。たとえば旧東工大は女子枠を設けている。僕は受験については多少知っているが、こういうことされると、受験自体が「なんだったんだよ」という感じになる。 あの厳しさは全員で作り上げてきたもので、なんでそこに女子だけ使えるルートがあるのか。 これは業界自体を失墜させるように思う。
少し前に機会があって大学の研究者の方と飲みの席で話したとき、別にこちらから話を振っていないのに、女子枠に対する愚痴を聞いた。アカデミックの人が苦言を呈すのは、学問の純粋性を汚されたように思うからだろうし、藤井棋士の本当の危惧もプロ棋士という全員で築き上げてきた歴史の純粋性を汚すからじゃなかろうか。
棋士の世界で藤井棋士が異を唱えられたのは、彼にそれだけの力と実績があるからだ。藤井棋士が声をあげれば無下にできない、というのはまさに棋士の世界が結果の世界だからに他ならない。藤井棋士は盤面で己を表現してきた。そこに性別という要素が入ることは、門外漢の僕からしても、不純であるように思う。
世の中は純粋ではないといえばそうなのだろうし、また歳を取ることで却って失うものが増えてしまう、再挑戦が難しくなる、ということは現実的に存在する。すると、これは若者の純粋性がなせることなんだろうか。 僕らはあまりにも世慣れしすぎているのか。
羽生さんからすれば、口では言わないだろうが、プロ棋士というものがもはやそんなに大層なものと感じられないのかもしれない。 であるならば、棋士版女子枠というべき社会的迎合も、感覚として正当化されるのかもしれない。 将棋の世界も社会の中にあることには変わりなく、もはや学者すら学問的な純粋性を追い求められないように、棋士もまたそのような認識なのかもしれない。
ただ、確かに今現在の社会にとって女子枠は迎合的かもしれないが、社会を良くするとは思えない。実力を測る評価指標に性別があるのは歪んでいる。これを言うと嫌われるのだが、やはり二十三の男子にばかり言わせる社会なのも忍びなく、せめてこの場で世論の一つとして言っておきたいと思う。

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