最近の世の中、ああしろこうしろ、というものが非常に多い。抗うのは非常に難しく、従わなければ分別がないと見做されがちである。あらゆる正当な理屈でもって、こうすべき、あるいはこう考えるべきという圧力をかけてくる。
正論の拒絶
どうしても従えない場合、以下のロジックを出すと、基本的には相手方は黙るしかなくなる。
私の人生をかけてそれを拒絶します。それによって不利益を被ることも覚悟しています。それにも関わらず私はそれを拒絶しますし、あなたがそれを非難するのはあなたの自由ですが、いかなる事由があれど、また体裁に関係なく、結果としてそれを強いていると判断されることがあれば、あなたが私の自由意思と自己決定権を不当に侵害しているものと見做し、あらゆる手段を講じて徹底的に抵抗します。
まぁこれはつまり、自由を盾にした拒絶である。自由は現代社会において最高位の建前なので、これを持ち出して、不利益を被ってもこれは私の自由意思だと言われると、現代社会のスキームとしてこれに論駁することは不可能で、ほとんどの場合手を引くと思うが、完全に腫れ物になる。そもそも論駁はできないが実力行使はできるので、刑法に違反していれば逮捕になるし、何も違反していなくても社会的孤立など大きなリスクを伴う。失うものは大きい。
しかし本当に抵抗する場合、ここまであからさまでなくても、拒絶の意思を示すほどに己の自由意思という最後のカードを出さないと、現代において正論とされることについて抵抗できない現実がある。現代の病理だと思う。
正論の前提
そもそも正論とは正しい論だが、AならばBというだけでAが真たることを保証するものではない。世の中で本当に真たるAなどエントロピー増大則くらいだと思うが、現実には憲法・法律・社会通念・常識のような強固なAは存在する。
しかしそれは物理法則ではないので揺らぎはある。夜中に洗濯機を回すものではないという大筋で多くの人が合意しても、では何時からが夜中なのか、またどんなときでも絶対に許されないのかとなると温度差があるし、そもそもそんなにものに同意しないという人も少なからずいるだろう。ここで人々の間に摩擦が生じる。
この摩擦の最も簡単な解決方法は、夜中の定義を決めてそれに全員が同意する体裁を取ることだ。それを守らないものは処罰される。処罰するのが誰かはところによるが、突き詰めていくと国家の暴力装置と市民の圧力になるだろう。トラストチェーンならぬ暴力の鎖によって社会は維持されている。
なのでこの鎖をうまく作ったやつが優勝、というのが現代社会の実態になっており、その実装の一つが誰も読まない利用規約だ。現代において自由とは利用規約のボタンを押すことである。これは明らかに本来の自由とは乖離しているが、利用規約は法律という見えているものに基づくのでまだマシなほうといえる。
正論を振りかざす者
現実において厄介なのは社会通念・常識・トレンドのような目に見えないが強固かつ変えられるもので、これにうまく適応できるものは正論を存分に振りかざせる。このように言うと、恐らく政治的なことを思い浮かべるだろうが、これはあらゆる分野で起きている。
たとえば政治とは縁遠そうなエンジニアだが、ベストプラクティスやデファクト・スタンダードなどの言葉を使う時、それは正論の背後にある威信を利用している。恐らく当人は単に合理的なつもりだが、その合理を突き詰めると物理法則ではなく人の世の理であることはしばしばだ。それは確たる真ではない。
あらゆる領域で身近な市民が、物理法則ではなく社会に基づく正論を使った暴力を、今日も無自覚に展開しているのであって、誰にとっても他人事ではない。
そして最も強いのは、そのようなトレンドを形成できる力を持った個人ないし集団であることは言うまでもないだろう。現代はそういう勢力が多く存在し、またそうあらんとするのか、あるいはその力にあやかりたいのか、今日も皆が正しさを主張する。そこには妥協もなければ、人間関係もない。あるのは契約と力の関係だけだ。
結局、万人の万人に対する闘争をしているのであって、その戦場が自由なオープンワールドから国家という社会になっただけだ。今日、この戦場では自由の名のもとに他者の言動を制限し、包摂の名のもとに他者を排斥する、現実のダブルスピークが起きている。文字列を読めば意味不明だが、正しいということになっている。論理の前提を書き換えられているためだ。そして書き換えた前提に基づいた正論で、他者をやりこめる。
2つの対抗策
この状態において、市井の力なき庶民にできることは、両手を広げて書き換えられていない本来の自由を叫ぶことだけになる。それは「打つなら打て」に等しい。
だがそれが本気ならば、それなりの迫力はある。いかなる事由があれど、暴力を本当に行使すれば、それは危険と見做される。核ミサイルを持ったからといってポンポン打てるわけではない。当たり前だ。どう考えても暴力を本当に振るうやつこそが人類の脅威だと皆知っているのであって、統治のための抑止を超えて実行するならば、実行した当事者自体が排斥の対象となりうる。
なので確かに力はあるのだが、それは文字通り命を捨てる覚悟なのであって、そのようなことがおいそれと出来るはずもない。しかし現実には本質的にそれしか残っていない。
自由それ自体は別に銃剣を突きつけ合うことではなく、摩擦を受け入れて相手との理解を深め妥協点を探ることも可能なのだが、我々は銃剣で摩擦の源からぶった切ることを選んだらしい。それに疲れたならば、相手にもされない場に逃げ込むしかない。恐らくはそのようにして、人々は移動をしてきた。我々に物理的フロンティアはもはやなさそうに見えるかもしれないが、所詮人が実効的に支配できる領域には限界がある。なんとかかんとか、隙間を見つけていくしかないだろう。
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