結局Google日本語入力を再び使い始めた

ATOKの許されざる突然の値上げ宣言の圧政に反発し、数年続けていたATOK Passportを怒りの解約、そのあとOS標準の日本語入力システムを使っていた。なので、WindowsではMS-IME、Macではことえり…ではなく日本語入力変換プログラムとかいう愛のない名前のやつを使っていた。

なんだけれど、結局今はWindows/MacともにGoogle日本語入力使っちゃってるよね。脱Googleとか嘯いていたのにね。

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ありのままの君が好き

言い訳すると、元々脱GoogleとはGoogleが明日なくなっても困らないという意味であった。実際、明日Google日本語入力がなくなっても「あら」くらいのもんなのだ。だからまぁ、いいといえばいい。とはいえGoogle日本語入力を使いながらタイプする脱Googleは楽しいか?という気持ちはある。

気持ちはあったが、利便性には勝てなかった。なんか一周回って一番いいような気がする。なんかこう、余計なことしなくて

日本特有のシステムだからかもしれない。なのでコストをかけてアップデートはされないものの、廃止しろと言われるほどでもなく、結果、完成したソフトウェアを必要以上にいじらないという、資本主義にあるまじき理想が達成された、のかもしれない。資本主義式アップデートの結果がATOKの悲劇だったわけなので…。

依存ではない、あるべき便利

結果的に、Google日本語入力はソフトウェアのあるべき姿、そして便利とはなにかを体現しているかのように思える。つまり、あればあったで便利だが、なくなったからといって困るかといえば、言うほどではない。しかしできればなくならないでほしいし、あったら感謝する。便利とはこのようなものではなかろうか

これと対極にあるのが依存だ。依存はなくなると困る。最悪の依存は、あってほしいわけではないが、なくなると困るタイプのものだ。そんな依存あるか?と思われるかもしれないが、ストレスからくる暴飲暴食やギャンブル依存症などがそういえるだろう。そしてソフトウェアでは、使いたくないが標準に合わせるために渋々使うOSやオフィスなどがそうかもしれない何とは言わないが。

そしてサブスク化したATOKにも、似たようなところがあった。少なくとも僕はATOKをやめたとき、多少の摩擦を感じた。感じたものの、いざやめてみると「なんか言うほど困らないな、なんであれに金払ってたんだ」みたいな気持ちになった。とすると、ATOKは僕にとって便利というより依存ないし惰性といえるもので続いていたのだろう、と今となっては思われる。

質とはなにか

これについて、Google日本語入力がかつてよりよくなった、というわけではないように思う。単にATOKの価値が下がったので、相対的に無駄と感じているのではなかろうか。これは長年のATOK使いであった姉も「昔ほどの精度はない」といっていたし、精度が悪くなったと愚痴るツイートは多く見られた。

質というのは厄介で、本質的に測定できない。測定できた時点でそれは質ではなく量である。だから質とはどこまでも主観だ。主観なのだが、多くの人が集まってなにかを選ぶとき、それは確かに存在すると思われる。その存在を確認するためにユーザ数やらなんやらを指標とするのだが、それは常に遅行指標であるし、また複合的な要因に支えられている。

結局のところ質の良し悪しは個々が己の人生にかけて判断するしかないもの、なのだろう。

その点で、ATOKは確かになにか失っていたのではないか。最安プランが廃止されたことで運用コストと単価は上がったのかもしれず、見た目の数値は変わらなかったりもしかすると改善すらされていたりするかもしれないのだが、それはどこまでも数値である。失われた数の中に、三十年来使ってきたユーザがこんな終わりかと吐き捨てるようなツイートがあったことなど、ジャストシステムは知るまいな。

結局Google

そんなわけで、結局またGoogle日本語入力を使っている。まぁそもそも、LinuxでMozc使っている時点で今更ではある。わかっていたけど身も蓋もないので言わなかった。なんか最近のGoogleは他社に比べると相対的にマシな気がしてきた。AIプログラミングはAntigravityを使っている。結局Googleやないかい。

ま、使えればなんでもいいのよ。

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