AIに相談し、AIの書いた記事を読み、AIに添削してもらい、つくづく思った。AIの出力はすべてつまらないし、これからもつまらないし、何者にもなれないだろう。
もちろんAIは元々何者でもなく、AIに過ぎない。それでも僕らは夢想する。AIがすべてを解決するのではないか。あの人を模したAIが出来るのではないか。
しかしAIはどこまでもただAIで、そこにあるのはただ出力だ。強いて言えば、何者かを模した何かを出す機械にはなれるかもしれない。もしかすると、それで十分じゃないかと思う人もいるだろうか。
残念ながら、AIがどんなに外形を模すことに成功したとしても、我々は決してそれに満足しないし、できない。想像すればわかる。
AIに「Stay Hungry, Stay Foolish」と言わせることはできる。だがそこに感動はない。誰もhungryになれないしfoolishになれない。その出力は温度のない炎のゆらめきのようなもので、触れるほどに虚しく、ただ白けた気持ちの中で、阿呆のような気分になるだろう。
言葉は伝達手段だ。何を伝達しているのだろう。情報だろうか。それはある。買い物メモに列挙された野菜の名前は、ただ情報だ。だがそれだけだろうか。Stay HungryとはF=maのような方程式であったか。
異なる。僕らは言葉を使ってただ情報を伝えているのではなく、互いを結びつけようとしている。いったいAIとどう繋がるというのか?
もし繋がるものがあるとすれば、それはAIモデルそのものではなく、モデルを作ろうとした人ではないか。
もしそのAIモデルが誰かの作品であると信じられたならば、その出力に心動かされることはあるかもしれない。ただしそれは、その出力の並びが素晴らしいからではなく、その出力を通じて、モデル制作者の何かと共鳴したからだろう。
同様に、買い物メモすら故人の遺したものならば想いを馳せて涙することもあるだろうし、方程式の生まれた歴史を知ればこそ真理に触れたような感動を見出すこともあるだろう。
人が言葉から本当に見出すもの、僕はそれを魂と呼びたい。

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