ライバー刺殺事件に見る、自力救済が支える国家の現状

世間の注目を浴びたライバー刺殺事件の判決が出た。求刑20年、懲役16年。1人の殺人の量刑としてはやや重めになるようだが、明らかな殺意と計画性があったことを考えると、こんなものかもしれない。

高田馬場刺殺 懲役16年の実刑判決 - Yahoo!ニュース

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事件の経緯

この判決について、SNSやヤフコメをちょっと見ればわかるように、侃々諤々である。

それはこの事件の経緯による。まず、最上あい(22)は高野(43)から借金をしていた。この年齢差から察しがつくが、まぁそういうことである。高野はそれを取り戻すために民事上の手を尽くしたが、最上あいの財産を抑えられず、実効力を持った差し押さえができなかった。で、復讐のため自力救済に至ったわけだ。それは認められないので、懲役16年とやや重めの判決となった。

この経緯を見て、「では高野はどうしたらよかったのか」という疑念が生じる。しかし、法がそれに応えることはない。というか、法と現在の国家の前提となる理念を考えると、これは自己責任となるだろうし、そう判断された形だ。

個人的な感想としても、判決についてはそうなるだろうなぁって感じ。

自己責任の果ての自力救済

まず、民間人同士の貸付は自由だ。なので、とりっぱぐれないように通常担保が必要になる。この担保は有形無形様々で、直接的な保証金であったり、安定した職業についているという返済能力の期待であったり、地位のある親のような人間関係であったり、要は最終的にとりっぱぐれしないための何かがあるか、これが信用となる。僕は個人事業主なので、いくら持っていたところでそれが明日もある保証はないため、これは信用にならない。ただし保証金をあらかじめ払えばその分は多分信用になる。

客観的に見て最上あいはその信用がないが、高野にはそれがあった。それで、最上あいは高野の恋愛感情につけいり、高野の信用を利用した、という形になる。

人間が見るとその悪意は明らかに思えるが、法の観点では恋愛感情も悪意も内面であり見えないため、外形的な断定は軽々にできない。親密に見えるやりとりをしていた、では厳しいだろう。婚約でもしていれば別かもしれないのだが、そんな隙は当然ながら与えない。

こういう、我々にとっては明らかだが外形的には断定できない、というやり方は他でも非常によく利用される。基本的な法律ハックといっていいだろう。

結局法とはそういうものなのだし、それは最初からわかっていることなのだから、いい大人がしてやられたというのは、これは自己責任となる。

自力救済はシステムの一部

しかしながら、ではそれでやり得かといえば、そうともいえないことをこの事件は示している。個人には最終手段の一つとして自力救済があるからだ。

もちろん国家の法はこれを認めない。暴力は国家が独占しなければならないのであって、個人にその権はない。量刑においても、借金があったことそれ自体は、民事で解決すべきことなのだから、情状酌量されない。それを認めると自力救済を認めたことになるので、認められない。

だがそれは自力救済を防ぐごとにはならない。法が自分を追い詰めた人間の味方(あるいは事実上そのような状況)になるのであれば、法を守る主観的な理由は消失する。そうすると、自力救済は起きるし、起きた。法は所詮事後処理なのであって、事後に裁いたところで自力救済の結果そのものは変えられない

しかし、この自力救済は次の自力救済を抑止するはずだ。なぜならば、今まさにやりすぎている、あるいはやりすぎようとしている者が、自力救済が現実のものであることを思い出すから。

自力救済は国家にとって最悪の事態だが、自力救済が自力救済を抑止する。つまり、国家は自力救済を認めないが、認めないだけで、一定程度あることを実のところシステムに組み込んでいる、と考える。

それは酷いと思われるかもしれないが、そもそも自力救済は何故悪か。

個人主義の観点からは自力救済は個人の最後の拠り所であって否定できないはずだし、自由主義の観点では無担保で貸し付けてしてやられるのは自己責任だが、同時にやりすぎて自力救済でカウンターされるのも自己責任のはずである。

自力救済が悪なのは、個人主義でも自由主義でもなく、集団主義的な国家の観点だ。そしてその国家が、事実上その存在をシステムに組み入れているならば、これは平常運転、ということになる。

市民の信用と現実の乖離

しかしこれは理屈である。

まず一般的に、明らかに詐欺的だとわかるスキームなのに、民事では事実上打つ手なしです、そもそも無担保で貸付ってそういうことです、というのは承服しがたい。まして自力救済はダメだと言いながら、自力救済の抑止となっているのが自力救済自体にしか見えないのであれば、普通は混乱する。

法で解決されるべきことなのに打つ手無しなのか、というのは、国家と法に対する信用を毀損する。もとより国家も法もそういうものだが、たいていの人はそのように考えていないし、だからこそ信用している。

そして国家自身も、実は市民のそういう信用を前提にしている。国家は国民を守ると信じるから信用足るのであって、ただ手続きを守るだけのシステムを市民は信用せず、信用されない国家はうまくいかない

見えない心は裁けない

悪を裁けという市民の声を無視し放置するのは、国家にとっても難しい。それで、ついつい何かしたくなる。そうして実行されたのが、ホストの売り掛け規制であったり、AV新法であったりする。

だがこれは、男女の間で扱いが異なる不平等感という、新たな問題をうんだ。その癖、売り掛け規制もAV新法も、ただシステムを複雑化・アングラ化させ、さらにコスト上昇の分引っかかる人からより多くの金を搾取するモチベーションを与えているだけだろう。

今回取り上げた刺殺事件についても、私人間の貸付についてもなんらかの規制や実行力が必要だという議論があるのだが、本質が人の内面なのだから、小手先の対策でどうにかなることではないと思われる。

なにかすればするほど、事態は悪化し、誰も救われない

当然である。先に述べたとおり、法治主義は外形しか扱えない。しかしこの問題の本質は恋愛感情や孤独感・疎外感のような見えない内面である。

内面の発露の形は様々だ。それは2かもしれないし3かもしれない。そして1+1を取り締まるために、取り締まってはいけない2*1も3-1も全部取り締まっているかもしれない。

愛の形は人それぞれだと普段は誰でもわかるのに、法においてはそのそれぞれを定義できると信じる。愛の定義は条文よりポエムでやってほしいものだ。

このようにして、問題は何一つ解決されず、それなのに自由も平等もすべてが損なわれていく。当然ながら、この状態では人々の国家と法に対する信用はどんどん低下する。このさきにあるのがさらなる自力救済である場合、国家は自分自身を維持できなくなる。

国家と共同体

もしこの難題に取り組めるものがあるとすれば、それは恐らく共同体である。具体的には、家族・友人・仕事仲間・趣味仲間・地域・宗教、あらゆるコミュニティである。それはまさに、国家が解体し続けたものだった。そして個人とダイレクトに結びつき、得られる利益の効率を最大化した。だがそれは同時に、共同体が引き受けていた個人の見えない内面を国家が引き受けることでもあった。国家にはそれができない。

つまり、法が認めない自力救済が法を支えているように、国家が認めない中間共同体が国家を支えていたことになる。その共同体が弱体化したことで、国家の土台もまた崩れつつあるのかもしれない。しかし今さら、共同体を取り戻すことは難しいだろう。壊したものは戻らない。

だが不幸中の幸い(?)として、法は自力救済を解体できないため、法の秩序はまだしばらくはもつのではなかろうか。いつまで持つかは、わからないのだが……。

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