最近あまり聞かなくなったような気がしますが、一時期、2010年代くらいはけっこう流行っていました。「持たない暮らし」に代表されるように、最小限のものだけをもって消費社会に振り回されず、心豊かな生活を送るみたいな感じのトレンドでした。元来のミニマリズムがどうだったかは置いといて、そういう感じでした。
持たない暮らしの実態
「持たない暮らし」の実践について、未だに覚えている記事があります。部屋に机と折りたたみ椅子、それにMacBookだけという非常に極端な生活をされていた方の記事です。独房でももうちょっと何かあるのではなかろうか、というのが正直な印象で、これは多分けっこうな人がさすがにここまでは…と若干引き気味だったのではないでしょうか。
ここでPCがMacBookなのは、実用的な意味がまずあるのは私も技術の人間なので(一応)わかりますけれど、それ以上に、この状態でみすぼらしさと一線を引くアイテムとして機能していたように思われます。たとえ実用的であっても、PanasonicのLet'snoteでは、成り立たなかったんじゃないかな。MacBookは実用の品ですが、同時にエンジニアの枠を越えたブランドでもあります。
数少ない服にしても、自分のお気に入りの服であるということ以上に、前提として文化的な記号性は若干ながら求められたのではないでしょうか。どんなに気に入っていても、どこぞのファッションセンターで揃えた服のローテンションで「持たない暮らし」にはならないように思われます。
消費社会の呪縛
それは何故なのだろう、ということを考えた時、そこにあったのはやはり消費社会の呪縛だったのではなかろうかと思われます。つまり「持たない暮らし」とは、消費社会の中で自分のもつ限られたリソースを、極端なパラメータを振ることによって、多くの損失を被りながらも、得られる主観的価値を最大化する、一つの消費形態だったのでしょう。それを消費社会と対置しているように思わせるための装置が、ミニマリズムという教義でありました。
ここで、本来のミニマリズム、持たない暮らしがどういう理想、理念であったか、ということを、僕はあまり重視しません。もし見るとすれば、現実との乖離のほうです。共産主義の理念と現実の共産主義国をみたら、その実態と理念の乖離を重視するはずです。頭の中と現実は、いつもいつだって違いますから。
消費社会の市民として
まぁつまり、これは僕の話なんですけれど、僕はミニマリズムや「持たない暮らし」の実践者ではないのですが、思想的なところとして、影響を受けていたなぁ、と思い返されるのです。ま、そうでもないと部屋が溢れますから。しかも職業柄、一般の人からすると謎の機械が多い。
都内1Kはつらかったな。それでも家賃は高く、一番高いところにいたときは、文京区でしたが、月11万したか、これになんか色々と彼らは乗せてくるので、年間150万くらいは家で飛んでいたと思います。日当たりのない1Kで。壁だけは綺麗でした。最後は練馬に逃げましたがそれでも諸費用乗っけて年間110万くらいだったと見てます。
先日関西に帰り、維持はとても安くなりましたが、部屋は広くなりました。まぁここでもし車を持ったら、結局東京より高くなるかもしれませんが、でも車があります。路線図に縛られることなく、どこへでも行ける。
そしてなにより家面積が広くなったことにより、できることが増えました。あー、僕は本当は、ただ太陽と風のもとで洗濯物を干して、余裕のある空間で畳んで、ご飯を食べるところと時間をきちんと用意したり、そういう当たり前のことをしたかったんだなぁ……と、なんだか、そういうことを今更ながら思います。
別に、すべての人がそうだという話ではありません。ただ都内の1Kで僕がミニマリズムに惹かれたのは、その本質的教義というより、まず何よりも節約になり、かつそれをみすぼらしくないようコーティングしてくれるものであったからでしょう。整備されたインフラや社会への信用、冗長性の重要性と危機意識のなさなどは、そこからくる副次的なもので、根幹としてはまず、僕が消費社会の市民であった、ということでしょう。
少し踏み込んだ解釈をすると、モノを持たなくても消費社会の市民として認められるうる、ということが魅力だったのだと、今にして思います。でも本当のところ、そもそも僕は欲しい「モノ」なんて別に大してなくて、それより求めていたことは、ただ太陽と風のもとで服を干す、時間と場所だったんでしょうね。
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