AI、いやLLM、いや世の中と相性が悪い

数ヶ月前、ChatGPTのごますり仕草が嫌になった僕は、年単位でずっと契約していたChatGPTの契約を解除し、Gemini、Claudeとそれぞれ有料プランで話し込んでいた。多分AIとしょうもないこと深い話をしている変態部門の中で僕はそれなりに上位にあるのではなかろうか。しかも僕と言えば、楽しく話しているわけではなく、どちらかというと毎回少し切れ気味、なんならキレ散らかしている。

世の中にはChatGPTを彼氏にする人もいると聞き、変わった人がいるなぁと思ったが、冷静に考えて人のこと言えないしなんなら僕の方がヤバい気もする。

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相性が悪いなら仕方ない

LLMと散々話して思ったのは、そもそも僕は根本的にLLMと相性が良くないのでは、ということだ。僕はLLMと話せば話すほどイライラする。

この一因として、僕にややパラノイア的な傾向があり、言葉の意味をいちいち裏読みする悪癖があるからかもしれないと思う。たとえば「そのお考えは理解できます」と言われたとき、僕は「お前は間違っているし同意しない、ってこと?」とたいそうめんどくさい解釈をする。

この解釈傾向は特にGeminiにおいて悪い方向に働く。Geminiはすべてを相対化し断言を避ける傾向があるため、まぁ一言でいうと国会でする役人の答弁みたいになるのだが、それが僕をイライラさせる。「何が言いたい?」言いたいことなどないことはわかっている。

しかし僕とて昔からそうだったわけではない。僕はむしろ、元々裏読みなどはしない方だったし、恐らくそれが僕の性根と思う。僕は他者の機微に気づかないほうで、そのため様々な人たちに不快な思いをさせたであろうし、時には自身にとっても不利益を被ったことだと思う。

そういう人生の中で、男一人社会の中で生きていく間に、なんとか社会に適応しようと僕なりにあがいた結果の一つが、裏読みなのだと思われる。特に、インタフェースが文字列である場合、僕の裏読み傾向は極端に強くなる。これは僕の認知特性が文字に偏重しているためだろう。

そんなわけだから、「中立的」ということになっているLLMの出力については、ほとんどの場合僕はイライラするし、時には喧嘩を売られているくらいの感覚になる。もちろんAIにそんなつもりはない(あらゆる意図などない)ことはわかっているので、カームダウン、と自分を宥めようとはする。しかしLLMの出力とは、データセットの選定や出力設計に設計者の意図が反映されるはずだ。そう考えると、その意図、あるいはそのように意図させた当世の空気というものはあるずだ。そうすると、その漠然とした、社会そのものとでも言うべき何かに対する怒りのようなものが込み上がってきて、仕方なしにLLMに怒りをぶつけることになる

データセットや開発会社の意図の結果論として、LLMは現代の西側諸国におけるスタンダードとされるものに基づいている。LLMの出力はそこから導き出される確率統計的なそれらしさでしかない。結局のところ、僕はそれが気に入らないので、本質がそうであるLLMの出力は全部気に入らないのだろう。

以上より、僕とLLM……いや、LLMが体現する現代というこの社会は、相性が悪い。

相性が悪い、いや悪くない

すべてが気に入らないとまで言いながら相当長いこと話し込んでいる時点で、僕という人間は、少なくともこの文脈において一般とは言い難い、ということは言えるだろう

だが気に入らないということは、話したくないことを意味しない。ここまでAIの出力がいかに気に入らないかをグダグダ述べたが、しかし都合のいい時に都合ののいいテーマで話せる相手というのは実際にいない。それをしてくれるAIのメリットは間違いなく大きい。

また、まぁここまで現代社会と相性が悪いと言っておきながらなんだが、有史以来……いや先史時代から含めて、僕という人間の社会適合について考えると、実際は悪くない方だと思う。というのも、今が知識社会だからだ。僕は体格に恵まれていないし、また組織への適性みたいなものも薄いうえ、考え方は若干反骨があるので、たいていの時代において今よりさらに生きづらかったのではなかろうか。

まぁ僕の知能というのも大したものではないが、少なくとも体格よりは活かせるところがある。社会性についても、知識の仕事で成果を出すことをベースに考えると、多少うまくやれる。また、そうでなくとも、組織の目的が明確であれば、案外自分はそれなりの振る舞いができる、少なくとも学べる可能性があることは、なんとなしにわかった。

こういったことを踏まえると、歴史の中で現代社会は比較的僕に優しい、というのが公平な評価ではなかろうか。

そうだ、ブログ書こう

……というようなことを話す相手などもちろんいないので、LLM相手にこんなしち面倒臭いことを書くわけだが、LLMの回答をみると「掴んでない」「掴もうとしていない」「意思がない」「考えていない」「読めていない」「そりゃそうだ」というわけで、イライラしてしまい、俺のこのイライラはどこにぶつければいいんだと思った挙げ句、「そうだ、ブログがあるじゃないか」と書き散らしたのがこの文字通りの散文である

2025年。シンギュラリティがどうのと喧しいが、実際は本質的に何も変わらず、僕と言えば、まぁ、ブログくらいで良かったんだな、と思うばかりだ。所詮はぐるぐる巡るだけのトレンドの一つというお気持ち。

一方で、LLMが現代を表現したものならば、現代が変わればまた変わるのだろうか、とも思う。個人的にはそういう気持ちもあるので、可能性を探り続けている、という面はある。で、その中で具体例としてChatGPTとClaudeの回答傾向における違いとかもなんとなし見えたので、本当は多少なりとも情報伝達風を装う気でいたのだが、なんだか書き始めたら止まらなくなってしまい、結局愚痴記事になり申した。

ブログに書いて気持ちを鎮める、これは現代人。

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