専門家を重んじる社会では専門性が軽んじられる

現代社会では、専門であることが非常に重要視されます。あらゆる領域において、専門家のコメントが求められます。これは裏を返すと、専門家でない者の発言力・影響力は相対的に小さいことを意味します。

専門がないことは現代社会においてはけっこう致命的で、というのも、経済的利益と社会的地位を得るのにしばしば何かしらの専門であることを必要とされるからです。したがって、多くの人が何かしら専門を持たなくてはと考えます。

専門であると社会的に認められるには多くの時間と労力がかかります。なので、一定の力を持つには、少しでも自分の力を発揮できそうなところに自らのリソースを割く必要があります。1日は24時間ですから、専門を究めるほどに、他のことにかけられる時間は減ります。つまり、非専門領域に対して見識を持つのが難しくなります。

しかし、専門家を評価するには専門的な知識が必要であると信じられています。よって、ほとんどの人は自分の専門またはせいぜいその隣程度くらいしか、実質的な見識において専門家を評価することができません。

ここで、専門性が深まるほどに、その専門の土台を築くのに時間がかかるようになるうえ、専門は細分化されていくため、必然的に専門を専門的な見識に基づいて評価できる者は少なくなります。

それにも関わらず、現実には人々は多くの場で専門家の評価を求められますし、評価します。組織に所属すればいくらも機会がありますし、実生活において外注したサービスの口コミやレビューなどもその一つです。もっとも代表的かつ重要な評価は選挙でしょう。

しかし、先の通り人々は自分のなけなしのリソースは自分の専門に集中的に投じておりますので、他の専門について知りえません。さらに厄介なことに、専門性を求める裏返しとして、非専門家が口を出すなどはずべきことだと強く内面化されています。そのため、軽々に己の評価軸でもって他領域の専門を表立って評価することに難しさが出てくる。

そうすると、必然的に社会的なコードに頼ることになります。肩書、経歴、人気、実績、目に見える権威にすがります。それが誠実な態度だとされます。

しかしこれは、本来の実質を評価する専門家の在り方とはかけ離れたものです。また実際、人々は自分の評価し得ないものについて評価することはできませんから、腹の底では不信があります。結果が出ているならまだしも、どうも悪い結果になっていると感じられる場合、たとえ口に出さずとも、内心では強い疑念を持ちます。

その疑念は表から見えないところで噴出します。噴出した疑念は当然表の専門家にとって気に入らないので、素人、陰謀、デマ、反知性、非科学的、などのラベルを貼り付けられます。誰もがそれにうなずき、黙ります。

しかしそれを信じる根拠を、誰も持ちえません。それが本当であるとも嘘であるとも、わかるための見識を持つ時間もなければ、その試みも軽んじられます。専門家になれないなら所詮素人であって、無駄だからです。

そうして、すべての人が専門家を重んじながら、実際にはその専門性を信じない社会になりますし、なりました。

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