正しさを求めることの暴力性についてはさんざっぱら言われているので今さら言うことはないのだが、もう少し踏み込むと、恐らく、正しさを求める、までなら社会的に大きな問題にはならないと思う。
大きな歪みになるのは、正しくないことをしていないことを証明しろ、みたいなことを言い始めたときだろう。これは悪魔の証明なので、魔女裁判になる。
若干可燃性を自覚しつつ、踏み込んだ例をあげると、性別や人種、国籍を問わず平等に人を扱いましょう、は大きな問題とならない。
平等に扱っている証明せよ、これも多分なんとかなる。まぁ、女性枠とかぶっちゃけそれなので。アメリカだとアファーマティブ・アクションがある。それは問題だろ、と思う向きもあるかと思うが、少なくともこの時点では決定的な断絶にはまだ繋がらない、とは言っていいだろう。
良い、あるいは良いとされることをしろ、これはいけるのだ。厳しくなるのは、悪いことをするな、となったときだ。
先の例で言えば、差別するな、は厳しさが増す。この時点で、他者に対する攻撃性が生まれるからだ。攻撃されれば、誰しも人は防衛的になる。ましてそこに正当性を感じられなければなおさらだ。攻撃する側とされる側では、しばしば正当性は一致しない。
だがこの時点においても、まだ決定的な断絶、まではいかないと思う。最悪なのはこの後、悪いことしてないことを証明しろ、まで進んだときだ。
つまり、差別していないことを証明しろ、なのだが、ここまでいくとこれはもはや正義の名を借りた言いがかりであり、ただひたすらに攻撃である。なぜならば、それは悪魔の証明であり、原理的に不可能だからだ。証明不可能なことを証明しろと迫るのは、建設的議論とはほど遠い。これはつまり、屈服を求めているのだ。
これは非常に暴力的である。だが、お題目について道徳的優位性を社会的に勝ち取ると、なんだか見過ごされがちなのが現実だ。そしてここに、一方的な攻撃と一方的な防衛が生まれる。
一方的な防衛を望む人はいないだろうが、一方的に攻撃したい人はそれなりにいるし、攻撃されれば防衛に回らざるを得ない。なので、基本的に攻撃されないように立ち回るのが社会的な最適解、ということになるのだが、攻撃者は常にターゲットを求めているために、完全な回避は不可能である。
こうなると、道徳的優位性を勝ち取ったはずの集団、その掲げるお題目に対して、鬱憤が溜まり始める。それを公に言えば一方的攻撃の対象になるから言えない。しかし言えないだけに、その人のより深いところまで沈殿していく。
民主主義とは、無記名投票というその沈殿した鬱屈を表に出す手段を公式に用意した制度、という見方はできるのだろうと、昨今の政情を見て思う。

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