表現の自由とAppleのストア掲載の自由はどちらが正しいか

表現の自由問題については何かと話題に事欠かない。先日もなんかこういうことがあったらしい。

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記事によると、なんかこうケツがプリプリした美少女キャラクターがAppleストアの審査に通らなかったらしい。2025年にはよくあること。

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ゲームメーカーにもAppleにも自由はある

よくあることなので、議論は喧しい。よく言われるのは、表現の自由の侵害、というものだ。これは確かにそうで、日本国においてケツがプリプリした美少女をゲームで描くことは禁じられていない。なんなら胸もぶるんぶるんさせてよい。もしかするとしていたかもしれない。ゲームメーカーには、美少女ゲームを作る自由がある。

しかしながら、同時にAppleにもまた、自社の庭において、ケツをプリプリしたり胸をぶるんぶるんさせたものを禁止する自由はあるだろう。過去の審査ではとおっていたということについても、たとえ昨日まではOKでも、今日からはケツプリ禁止したくなることもあるだろう。

したがって、原理原則としては、許された場所でケツをプリプリしたり胸をぶるんぶるんさせるべきだ、ということになる

独占と事実上の規制

しかしここで問題となるのは、Appleストアに掲載出来ないことは、事実上の規制に等しいことだ。今モバイル市場はAppleとGoogleの二大巨頭により寡占されており、また両社とも似たような文化的基準で統制をしている。しかもモバイル市場は非常に巨大である。これは、事実上アメリカの一部の思想によって文化統制されている状態に等しい。

では新しいストアで対抗すれば良いのではないか、というと、それは現実的ではない。既にその時は過ぎた。少なくともモバイル市場は、事実上決せられた。Googleだけがギリギリ滑り込むことができた。

しかしそれは市場の結果なのだから、甘んじて受け入れるべきなのではないか。これは理屈として筋が通る。同じように、格差も貧困も市場の結果である。誰もそうしようと悪意を持って貶めたわけではない。

しかしながら、市場の原理は物理的な自然法則ではなく、つまるところ最後はその人が同意するかにかかっている。その人が同意せず、さらに自らの命を投げ出しても構わない、と考えた場合、その人は市場の原理に沿わない行動を取る。これは論理的にそうなる。なぜならばその人は市場を否定したのだし、また人間は何があっても市場を肯定しなければならない責務を背負っていないからだ。実際、市場を否定する国家は存在する。

さて、市場を否定した人は、場合によってはケツをプリプリすることを禁じるAppleに暴力的な反抗をする可能性がある。だが今のところそうなってはいない。なぜだろうか。いくつか理由は考えられる。

  1. 市場を否定する人は存在しないから
  2. ティム・クックはスーパーりんご人で戦闘力53万を超えるため反抗しても一撃のもとに粉砕されるから
  3. アメリカ警察に射殺されるから

恐らく3に近いだろう。法律、つまりその向こう側にいる警察という暴力が、たとえどんなに納得できなかったとしても、気に入らないやつを気に入らないという理由で撲殺することを躊躇わせている

市場経済の成れの果て

ここで、ではもし国家による庇護が失われた場合はどうなるのか、という問題が考えられる。これは荒唐無稽のようだが、現在進行形で起きている。たとえば今、GoogleはEUで制裁を課せられている。

トランプが「関税で報復」か? Google日本元社長が憂慮、独禁法違反でグーグルに5千億円の制裁金を課したEUが自ら締めた首 - まぐまぐニュース!

EUは国家としてGoogleを締め上げている。これは国家による暴力だ。企業が国を超えたといわれて久しい昨今だが、現代の企業は別に私兵団を持っているわけではない。銃剣を突きつけられて金を払えと言われれば、払わざるをえない。

そしてここに、トランプ大統領が口を挟む。アメリカという国家が、報復をチラつかせる。ミサイルを持っている。

これは市場の原理だろうか?そういう感じはしない。

いのちをだいじに

だが現実はそうなっている。これについて、べきだべきではないと言っても仕方が無い。

つまり我々は、別に市場の原理のために生きているわけではないということを、ケツプリ禁止に怒れる男だけではなく、あらゆる人が理解し、そのような人たちによって国家は構成されている、ということだ。

実際のところ、大義名分は様々なものがあり、どれが正しいと言えるものではない。自由と平等はしばしば対立するのは、いまさら僕が言うまでもない。

表現の自由が守られるのは、表現の自由が正しいからではない。表現の自由に対立する正義は存在する。そしてそれより表現の自由が優先されるべき自然法則があるわけではない。だがそれでも表現の自由が守られるとすれば、それは、表現の自由を守りたいと思う人がいるからだ。そしてそれが国家を動かし、時には暴力さえ振るわせるからだ。自由を守るのに必要なのはそのために死ぬ覚悟ではなく、死んでも殺す覚悟だ。たとえ理屈の上で矛盾したとしても。

もちろんそんなことは嫌だし、そんなカジュアルに命を懸けないといけない世紀末は御免なので、ここで、相手のことを知る努力が双方に求められる。学級会で話し合いしましょうね、って言ってんじゃないよ。もっと生々しく、時には痛みも伴う、現実の譲歩だよ(たとえば今回の事例なら外部ストアを公式に認めてゲームを展開できるようにする、とかがある)。

人にはそれぞれ、大事にしているものがある。それは自由かもしれないし平等かもしれないし、秩序かもしれないし、ケツや胸かもしれない。人それぞれだ。ただ、誰かの大事が誰かの大事よりも優先される道理は存在しない。なので、僕らは少しでも自身や周囲の人たちの大事にしているものが、それなりに大事にされるようにしている。そのバランスが崩れると、それは大きな歪みとなって動く。

ケツのプリプリした女がストアからパージされるといえば、バカバカしいようだが、今見えている歪みである。この歪みは恐らくまだまだ大きくなっていく。そしてどこかで、支えきれないほどにバランスが崩れるんだろうね。その時は近づいているんじゃないかな。正直、このバランスを是正する装置は、多分もうとっくに、壊れてしまっている。壊したのかもしれない。

僕の言いたいことはただ一つで、僕らが戦う日が来るとすれば、それはそれが正しいからではなく、大事だからだ。そこだけ、間違えないでおきたい

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