「恋愛感情を持つことを常に迷惑がられてきたので、唯一迷惑がらないアイドルにガチ恋した」というような論理展開を見て、なるほどなぁと思ってしまった。あらゆる女性から恋愛感情を迷惑がられる、と信じられた場合、すべての女性に対する恋愛の難易度がサチってしまい、一般女性もアイドルも同じになる、というのは論理的に確かに、と思った。むしろ商業上の繋がりから関係をもてる分だけアイドルのほうがまだしも可能性がある、ということになる。なるか?
ガチ恋理論の爆誕
無理矢理定量的に考えてみる。たとえば一般的な女性との恋愛に必要な力が100〜1000くらい、アイドルは10000と仮定する。ここで、恋愛力(なんだそれは)が10しかないAにとって、あらゆる一般女性とアイドルは、どちらもアクセスできないという点で同じである。
さらに、アイドルは商業という特殊なロールを経由することで、一定程度の繋がりを持つことができるとする。この場合、Aにとってもっとも身近な女性は一般女性ではなくアイドルということになる。
普通ならば「それは特殊なロールに過ぎず、接点を持つことはできても恋愛には至らないから、恋愛力を100まで上げて射程に入る女性を狙うべきだ」となるように思うが、ここでいくつかの仮説、あるいは主観的な真実が採用される。
たとえば、Aはいくら努力してもそのスペックの上限はせいぜい20程度、という設定を採用すると、何をどうやっても無駄となる。もう少し穏当に考えて、非常に苦労すれば120くらいにはなるかもしれないが、そんな苦労はできないとか、そんなに頑張ったところで120でアクセスできる女性と付き合いたいとはと思えない、とも考えられる。
ただこれらは一般女性と付き合えないことを正当化する理屈にはなっても、特殊なロールを通じて接点があるアイドルにガチ恋することに合理性があるとはならない。ここでさらにもう一つの論理が登場する。それは「恋してしまったら仕方が無い」だ。突然の浪漫。まぁ確かに、恋愛感情とは制御できるものではない、というのはそう。
まとめると、以下のようにガチ恋理論が展開される。
- 恋愛力が低すぎてすべての女性に拒絶される
- しかしアイドルは商業の形で繋がりを得られる
- 繋がったら恋してしまった。恋したらどうしようもないじゃない
すごい。
ガチ恋は否定できるか
さて、このガチ恋理論は否定できるだろうか。まず考えられるのは、「すべての女性に拒絶されるという前提は誤りだ」というのがあるだろう。しかしこれが当人に響かないことは想像に易い。当人はその過去の経験から強烈にその前提を事実として感じられているはずで、他者がとやかく言っても届かないだろう。
次に考えられるのは、「商業の形で繋がっても恋愛に発展することはまずない」だが、これも「恋したら仕方が無い」と突然の浪漫を持ち出されてはどうにもならない。
まぁ結局のところ、恋愛とは突き詰めるとどこまでも主観なので、その主観でもって「そんなことはありえないんだ」「仕方ないんだ」「なぜならばそうだからだ」と言われるとどうにもならん、という話ではある。
ガチ恋は理解できるか
僕がなるほどなぁとなったのは、いくつかの前提と浪漫を採用した場合、ガチ恋の論理展開は可能だと思ったからなのが一つ。僕自身は生涯独身も見えてきた三十代後半だけれど、ガチ恋どころかアイドルにハマったこともないし、大昔連れられていったキャバクラも時間と金の無駄以外の感想がなく、今もまったく行きたいと思えないので、ガチ恋というのは意味が不明だなぁと思っていたのだが、論理の筋が考えられたことで、少し理解できたような気がした。
だが心にひっかかりを感じたのは、そういう表面的な理解以上に、そこで採用される前提と浪漫について、思うところがあるからだろう。
まず「すべての女性に拒絶される」という前提が、荒唐無稽で滅茶苦茶かと言われると「どうだろうな……」というような感覚は正直ある。かなり極端だと思うし、人間色々なので、本当にまったくいないとは考えづらいが、だが世界のどこかにいたとして、出会って関係を持てるかという話はまったく別だ。僕もまぁ結局うまくいかなかったから今があるわけで、主観的にそのように感じられる気持ちは理解できる。時間は有限で、交流にかけられるリソースは限られていることを思えば、確率から実際的に妥当な結論かもしれない。
だがこれだけでは「結婚しない」理屈であって、ガチ恋にはならない。ガチ恋するには、まずアイドルと繋がりを持たなければならない。
前述のとおりリソースは有限なので、どうせ無駄な一般女性にアタックするなら、アイドルと商業上の繋がりを得るほうが良い、ということになる。なので、積極的にアイドルと繋がりを持つことに合理性が生まれる。しかし、これは「女性に受け入れられないと感じながら商業上の接点を求める」という相反した感情が必要で、そこにやるせなさというか切実さみたいなものを感じる。
しかしこれでもまだ「アイドルに夢中になる」レベルでガチ恋にはならない。ここでガチ恋にステップアップするのに、「恋したら仕方ない」という突然の浪漫が採用される。この浪漫の採用が興味深い。この浪漫は否定できない。個人の感情だからだ。
拒絶という土台に理屈を積み上げ、その頂に浪漫の楼閣を築き上げることで、ガチ恋は完成する。
恋は何色
しかし、ここで一つ疑問が生じる。「恋したら仕方ない」は、本当に否定できないのだろうか。たとえば政略結婚などが普通にされていた時代において、個々の恋愛感情は否定されたのではないだろうか。つまり、「恋したら仕方ない」はあくまで現代的な価値観であって、決して普遍的なものではない。そしてその価値観とは、個人の自由を尊ぶ自由主義であり、個人主義だろう。
ここで皮肉なのは、「すべての女性に拒絶される」という切迫した感情も、他者の自由主義、個人主義に起因しているのではないか、と考えられることだ。拒絶は他者が選択の自由を行使した結果ともいえる。もし、結婚というものは家同士の話であって当人の話ではないという価値観が主流であれば、拒絶に苦しむこともまたなかったのではないか、と思われる。
そのように考えると、自由主義・個人主義によって追い詰められたものが、最後の最後、自由主義・個人主義的な世界の中心で「俺が恋して何が悪い!」と叫んでいるようにも思える。その姿をどう見るか、何を感じるかは人によるだろうが、一つ言えることは、これは恐らく本質的に繰り返された風景で、価値観が変わっても人の世はどこまでも変わらないのだなと、そんな風に思う。

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