日記を続けるうえで重要なことは、日記が続かなくても気にしないことだ。これは多分続いている人はだいたい頷いてくれるだろう。実際たまに聞くノウハウ、というよりは気構えでもある。人の気分を楽に人の気分を楽にさせる言葉だから、言いやすいというのはあるだろうな。
一方で、これは或る種の奥義というか境地みたいなもので、「そうか気にしなくていいのか」と本当に気にしないと、恐らく日記は続かない。
気にしないという一つの境地
日記を続けている人が「続かなくても気にしなくていいよ」というのは、恐らくただ自身の感覚をありのまま述べているだけで、まったく悪気はない。実際その人にとってはそうである。半年、なんなら年単位の断絶期間さえあったりするものだ。しかし、これは日記が「本当に」続かなくて悩んでいる人の福音にはならない。
というのも、続けている人の「続かなくても」には、言外の前提があるからだ。その前提とは、にべもないことを言えば「続けてきた」という過去の事実である。そして続けてきたが、今はなんとなく書けていない自分という現在を見つめている。そしてその自分は、たとえ今書けていなくても、いつかまた書くだろうという未来への確信がある。
このような人にとって、今書けていない、あるいは書いていないことは、それ自体が既に一つの意味を持つ。日記を書くには種々の条件が必要で、この時はその条件が揃っていなかった。そして振り返って、ああこの時はそうだったな、と思う。空白すら意味になる、これは日記を続けてきたからこそ辿り着ける境地なのだ。
気にならなくなるまでは気にしたほうがよい
一方で、過去・現在・未来が揃っていない、始めたばかりの人にとって、空白はむしろ警告である。日記を続けてきた人の空白とは明確に意味が異なる。恐らくは、日記の終焉として振り返ることになるだろう。
どんなことでも、ベテランが無意識の間に省略する手順を、初心者が真似するとうまくいかない。「あの人がやっていないんだから、やらなくていいんだろう」はよろしくなく、始めの間はむしろ愚直に教科書通りやるほうがよい。後で「あれは別に不要だったな」と体感することになるだろうが、しかしその無駄な過程が人間には必要らしい。
したがって、日記を続けたいと思うのであれば、少なくとも数ヶ月程度は、「何が何でも続ける」という意気と気合いは合ったほうがよい。そうして日記が習慣になっていくと、自然と書くという行為そのものについて自分なりの感覚が芽生え始める。ずっと続けていくうちに、「書かないも書くのうち」という気分が、言葉遊びではなく実感として思え、空白にも意味を見出す境地に至る。
以上をまとめると「続かないことが気にならなくなるまでは気にした方が良い」ということになる。
日記なんてなんでもいい
ここで終わってしまうと、ではその境地に至るまではどうしたらいいのかということになるのだが、正直その汎用的な解はない。別にそれらしいことを言ってもいいが、実際的ではない。日記なんてものはどこまでも個人的なものであって、その道は自分で切り開く以外に本物はない。
で終わってしまうとやはりあんまりなので、それでも一つ言うならば、日常の中に日記を組み込む努力をする、ということがあるだろう。具体的には、毎日やっていることの中に書き物があれば、それを日記とする、という逆転的な方法がある。日記を書くのではなく、今書いているものを日記ということにするわけだ。買い物メモを書いているなら、それを集めたものを日記ということにしてもいい。家計簿を日記にしたっていい。
そんないい加減なことでいいのかと言われるかもしれないが、むしろそれでいい。それこそ、その人の人生の一端を表現する個性だと思う。それに、兎にも角にもまずは続けることだ。続きさえすれば、そこから広げることができる。買い物メモに一言二言感想を添えてもいい。それをファイリングしてもいい。日記の形態なんか、なんでもいい。
実際、僕の日記の形態は割とその時々によっていて、ノートの大きさもバラバラだし、それどころかデジタルのこともある(一時期デジタル化しようとしていた)し、ブログに日記めいたことを書いていた時期もあるし(今も割とそうかも)、最近は去年から始めた手帳が日記のような気がしつつある。綺麗にパッケージとしてまとまっているわけではないが、出せと言われればこれが日記だとアナログ・デジタルバラバラの束をまとめられる。僕にとってはそれらが日記であって、長い空白期間もあるが全体として「続いている」という自意識があり、きっと死ぬまでそうなのだろうという確信的な予感がある。
重要なことは、これが日記だと自分が心の底から思えることである。それが何かは、自分にしかわからない。それを見つける行為が、日記を書くという行為なのだと思う。

コメント