20年くらい真面目にやってると、「かつて一世を風靡した考え方がボロカスに言われてダメだしされて新しい何かが出てくる」体験がボコボコ出てくる。
そうするとかつての隆盛を思い返して「ありゃいったいなんだったんだ」という気持ちと、今の流行についても「これもか?」という気持ちになる。
進歩とサイクル
正直それは進歩というよりサイクルに感じられるし、多分そうなのだろう。
別に無意味とは思わないが、結局のところ絶対的なものなどないので、当世の流行とは適当にお金がもらえて非難もされない程度に付き合い、サイクルに影響は受けつつも自分の芯を手探りで探し見つめる努力が人生にはいるのだろう。
あの時も今の僕くらいの年齢の人たちは冷めた目で見ていたのだろうか、その人たちは今どこで何を見ているんだろうか、もう見てすらいないのだろうか、などと思う。
トレンドと自分の距離
まぁ今の日本で20代くらいだと、まだ芯とか以前の話ではあるので、とりあえず流行に全力で乗っかってもいいと思う。
トレンドを無視するよりは乗っかるほうが勝率が高い。
ただあまり高いところまでいくと落ちた後の衝撃も凄まじい。
まぁ現実には重なり合った領域の中にあるため、無視も全振りもそうできることではない。たまたま今いる場所で役割を果たしていく中で、その人の芯らしきものが垣間見えることもある、くらいだ。
ただトレンドと自分の距離感についてはどこかで意識したほうがよいのはそうだと思う。
実際時代の流れの中で意識の有無にかかわらず自分は影響を受けており、その感度は経験の蓄積によって薄くなる。
すると、次のトレンドの中で、自分の信念があるのではなく単に時代の残骸みたいなロートルに成り果てるのは割と大げさではなく、よくある。
アップデートのその先は
自分とトレンドとの距離を測って立ち位置のキャリブレーションをするのは、存外に難しさがある。
たとえば「価値観をアップデートしよう」のような言説は、一見自分の考え方を変えていくということで、時代の残骸にならない考え方に見えるが、実は「価値観のアップデート」という姿勢自体が既にトレンドである。つまりロートル化にむしろ近い。
ここで、価値観をアップデートするという価値観自体に対する懐疑が生まれるわけだが、こうなると言葉遊びにも見える。
実際、この感覚は重要で、信じるにせよ疑問を抱くにせよ、そこには自分自身の現実に基づいた質感がいる。
しかしこの感覚が現実の質感だと判別できる便利なリトマス試験紙があるわけでもない。その言葉が借り物ではなく本当に自分の言葉と言えるのかは一つ試験紙になりうるが、その判定も結局は自分がすることになる。
まぁこれは非常にたいへんだし難しいので、現実的には時代の変化を感じつつ、それに怒るのではなく静かに受け入れる態度に辿り着ければ、そこに至る過程はなんでもいいんだろうと思う。

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