ネットで政治のために他人の人生を利用しようとする人

政治に無関心な国民が無能な政治家を生む、のような言説をSNSではよく見聞きします。

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国民と政府の関係古今東西

調べると松下幸之助の「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しかもちえない」という言葉が多く出てきます。

さらに見ていくと、なんかフランス革命時代のサヴォアの思想家・外交官ジョゼフ・ド・メーストル(1753-1821)とかGeminiに紹介されました。「あらゆる国民は、自らにふさわしい政府を持つ」というようなことを言っていたとのことです。

これは現代の文脈だと民主主義的な戒めとして飛びつきたくなるようような言葉ですが、この人はゴリゴリの反革命思想だったようです。なので、松下幸之助のような意図で言っていたはずはないですね。正直Geminiがなんでこのひとを引き合いに出したのかは謎なのですが、思想の源流を辿っていくと一つ確かにあるのでしょう。

まぁ関係の有無は別に、政治体制によらず、「国民の程度が政治の程度」は国家を語るうえで出てくる考え方なのだと言える、のではないでしょうか。もう少し言えば、絶対王政だろうが帝国主義だろうが民主主義だろうが社会主義だろうが共産主義だろうが、その政府と国民の程度は強い相関がある、まぁ結局それを言い換えるとジョゼフや松下幸之助の言葉、そしてSNSでよく見られるようなツイートになるのだと思います。

この考え方について、道徳的な弾劾は可能だと思うのですが(たとえば独裁政権の貧困国でもそうだというのか、など)、ここではそれについては深入りせず、とりあえず日本を始めとする近代国家において、私は特に否定するところはないというか、まぁそうだろうなぁと思う程度です。

政治に関心を持とう論の遠く希望的なリターンと確実で現実的なコスト

ここから踏み込んで、「政治の程度は国民の程度、だからもっと政治に関心を持とう」までがしばしばワンセットになります。それは直接的にそう書かれていることもあれば、直接書かれてはいないが文脈上そう読むのが妥当な流れ、まで様々ですが、特に意味もなくボヤキのように国民と政府の関係を独りごちる人はあまり多くありません。たいていは、何かしら説得や啓蒙の意図があります

別にいいのですが、一点気にかかることがあります。政治的な活動やその思想信条を表明したり現実の行動に移したりすることは、それがたとえちょっとしたものであっても、基本的にはリスクとコストがある、ということです。

さらに、そのリターンはあまりにも自分という存在にとって遠い、個人にとってはその成果を身近のもの、自分のものと感じるには、あまりにも大きすぎる社会的な活動である、ということも考慮に入れたいところですが、そのリターンの遠さが、人によってはむしろ魅力に見える、ということはあるかもしれませんね。誰だって給与のためより世界平和のために生きたいでしょう。

しかしその大きく遠大で希望的なリターンに対し、コストはどこまでも具体的で身体的で泥臭く確実なものです。たとえそれが「政治的なツイートにいいねする」というささやかなものであっても、Xの邪悪なアルゴリズムは即座にそれを掴み、感情揺さぶる似たような政治的ツイートと美容広告で溢れたタイムラインに仕立てあげ、あなたのアテンションを根こそぎ奪いにきます。

自然あなたのツイートは政治的になり、過激になり、攻撃的になり、アルゴリズムの解析するあなたの立ち位置は、もといた座標から少しずつずれていきます。座標は固まっているほうがアルゴリズムもやりやすい。広告的な意味で。

それはコストです。そして、予期せぬ事態を呼び込むリスクにもなります。その自覚はどれだけあるものでしょうか。

いいねも政治活動

恐らく、政治活動というのが現実の生活上でのみ成り立つものであった場合は、良くも悪くも目立ちますので、そのコストとリスクは意識せざるを得ないものであったと思います。それに多分、どうしても、呼びかける側も相応の責任を感じる双方向的な構造になるんじゃないでしょうか。それがSNSにおいて、非常に一方的かつ軽く見えづらくなりました

とはいえ、たしかに、SNSでの活動は軽い反面、案外影響力があります。ある批判的なツイートが万バズして、それに慌てた批判された側が態度を一変し平謝りする、という光景は日常的になりましたし、そこには一種の痛快さがあります。拍手喝采する人あれば、逆に、そんなことで謝る必要はなかった、毅然としているべきだったと嘆く人も。

いずれにせよ、ツイートは現実世界に影響を及ぼし、この閉塞感のある現代社会の中で、我々が少しでも参加したと実感できて現実的に可能な、数少ない活動なのだと思います。

しかしその活動はあくまでも、アルゴリズムの海に数字として溶け込むことです。だからこそ気軽である反面、どうしたところで、ただの数字です。そこには誰もいませんあなたさえも、いません

その数字になるために、コストを払い、リスクが生じます。それはあまりにも小さすぎて意識しづらいのですが、時間をかけて積み重ねていったとき、きづくと、明確なコストを払っていたことを、経過した時間と変わり果てたタイムラインやFFを見て気づくことになります。また、生じたリスクのいくつかは顕在化したのではないかと疑わせます。

そのとき、なぜこんなコストを払ってしまったのか、と愕然とすることは、不幸なことです。

人に政治を勧める人は、そのリスクとコストを背負ってくれと訴えていることを自覚してほしいし、またそれを聞く人も、そのリスクとコストを認識しなければ、そのうちにタイムラインを見てウンザリするようになるでしょう。なりました。

まぁ、ウンザリで済むなら、多分まだ良いほうなのですが…。

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